■ 夢姫〜ゆめひめ〜 / j1poul 【プロローグ】 夢。 それは 夢魔の作る世界。 そして 夢魔が存在する世界。 あるところに、夢魔がいた。 その夢魔は、何をするでもなく漂っていた。 喜びも、怒りも、悲しみも、楽しみも。 全ての感情を捨て、ただ、漂っているだけだった。 夢を、創らない、夢魔は、 夢に、存在することが、出来ない。 即ち、存在意義を、失う。 その夢魔は、ただ、漂っていた。 その、人ならざる者に、出会うまで。 狼。 「あおぉぉぉぉぉぉぉぉぉん」 子供たちは、にんげん、に殺されていた。 にんげんは、黒く光る銃で、子供たちを、コロシタ。 「あおぉぉぉぉぉぉぉぉぉん」 くらい、くらい、ヨル。 三日月だけが、草原を照らしている。 はっはっはっはっは ははっははっははっ 荒い息遣いが月夜に響き渡る。 狼達の狩り。エモノは、にんげん。 風が、かすかに獲物の匂いを運んでくる。 狼にとっては、これで充分過ぎるくらいだ。 「あおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉん」 あちらこちらで、仲間が遠吠えをあげる。 にんげん、は、かわいい子供たちをコロシタ。 だから、コロシ返さなくてはならない。 「おぉぉぉぉぉん、おぉぉぉぉぉぉん」 エモノはもうすぐだ。 と ガキイィィン 肉に食い込む痛みと共に、脚を何かがはさんだ。 足に喰らいついて、離れようとしない。 引っ張っても、噛み付いても、それは外れなかった。 にんげんの、匂いがした。 それは、どんなことをしても外れなかった。 にんげんの、罠だった。 「—————」 断末魔の、悲鳴。 狩りの、終了だ。 仲間達が戻ってくる。 それぞれに、エモノの肉片を咥えていた。 仲間は、雌狼がにんげんの罠にかかったことを嘆いていた。 だけど、どうやっても罠が外れないことを悟り、一匹、また一匹と去っていった。 狼たちは放浪している。 ここではぐれたら、それはもう二度と合えないことを意味している。 すくなくとも、生きている間には。 雌狼の目前には、死、だけが横たわっていた。 だけど、雌狼は、生きていた。 最初の3日は、仲間が置いて行ってくれた肉で飢えを凌いだ。 次の3日は、ただ空腹に耐えた。狼にとってはこれくらいの飢えなど何度も経験している。 その次の3日は、雨だった。 狼は、体温を奪われたが、泥水をすすって喉の渇きを癒した。 最期の3日は、じっと横になり、ただひたすらに飢えを耐えた。 何日が、経過したのか。 中空には、満月が冷たい光を放っていた。 雌狼が、意識が朦朧となり、現実と虚構との区別が曖昧になり、あとわずか一押しで、命を失っていただろう、そんなとき。 男が、通りかかった。 黒いマントで全身を覆い、その内は窺い知ることができない。 明るいはずの月夜に、男のギラギラしたあかい眼が、くらい闇を意識させた。 「こんなところに、狼か。」 雌狼は、本能で、この男が人間の形をしているがにんげんでないことを感じとった。 だけど、わずかに残った力を振り絞り、唸り声を上げた。 男は、興味なさそうに雌狼を一瞥し、雌狼が罠に掛かっていることを知った。 「ふん、死にかけの狼などに興味は無い。」 男にとって、狼は興味の対象ではなかった。 空腹ではなかったし、年月を超越した存在にとっては、一匹の死にかけの狼など、興味を抱くことすら値しなかった。 男は、そのまま何をするでもなく、狼の横を通り過ぎるはずだった。 だけど。 それは、何千何百万分の一の可能性だっただろうか。 本来なら、それは決して有り得ない出来事のはずだった。 本当にただの気まぐれだったのかもしれない。 それとも、優しく吹き抜ける夜風が、男の心を動かしてくれたのかもしれない。 男は、狼を振り返った。 「ふん、本来ならお前などに構ってやるつもりも無いのだがな。」 バイン 男が一瞥しただけで、にんげんの罠があっけなく砕け散った。 雌狼は動かない。いや、動けない。 だがそれでも、朦朧とする意識の中で、雌狼は更に威嚇の唸り声を上げた。 男には、血を吸うことはできるが、治癒の能力は無い。 だけど、狼の素質には気がついていた。 綺麗な命の色をしている。稀に見る素質だった。 血を吸わなくても、ほんの少し後押ししてやるだけで、この雌狼なら独り立ちできるであろう。 「お前に…名前をやろう。」 名前は言霊、力。名前を得ることにより、同時に力も得る。 「お前の名前は————だ。」 その刹那。 カカッ 光があふれた。 月の光が、星の光が、周囲を漂っていたもの全てが、力となって雌狼に流れ込んだ。 もはや雌狼は、死にかけではなくなっていた。 傷が塞がり、圧倒的生命力でもって、男の前にいた。 男は言った 「共に来るか。」 雌狼は、人間の言葉ですらも、理解できていた。 だが、判らなかった。この男が、この存在が、何者なのか。 獣の本能の部分で、「拒否」の感情が働いた。 雌狼は、答えなかった。 「ふん、まあいい。俺には求めるものがある。———永遠をかけて求めなければならないものが…永遠の命題が。」 男は再び踵を返し、去っていった。 それきり、雌狼と男とは二度と会うことは無かった。 雌狼は、考えた。 名前とは。 —名前トは言霊。ダから力あルものから名前ヲもらえば、力ヲ得る。— 雌狼は、考えた。 何故、男は自分に名前をつけたのか。 —名前を付ケレば、君が力ヲ得ル。あの状況で、君ヲ救うのにモットモ適した方法ダッタかラ— 雌狼は、考えた。 名前「————」は、どんな意味があったのか。 —ソれが君ノ名前、君と、他トヲ明確ニ区別する、名前。— 男は言った。 『共に来るか。』 言葉の意味はわかる。だけどその理由がわからない。 何故。 雌狼は、考えた。 男は、何故そんなことを言ったのか。 —直接、訊イテミレバイイ。— そう。 だから、旅に出た。 いや、今までと同じだ。今までも、自分達は放浪の旅を続けていたのだから。 男は、永遠の命題があるといっていた。 だから、時間も永遠にかかるのかもしれない。 だけど、時間は…時間なら、こちらにだってあるのだ。 なら、追いつける。 いつか、必ず。 なぜなら、自分は、狼なのだから——— 漂っていただけの夢魔は、目的を見つけた。 再び、出逢った、輝ける魂。 この魂と共に、何処までも、いけるところまで。 それは、ちょっとした話。 目的のなかった夢魔と、目的をもった雌狼。 不思議のあふれるこの世界では、ほんのちょっとした話。 満月が、優しく彼女達を照らしていた。 【一日目(土曜日)】 夢。 これは夢だった。 なんとなくそれが判った。 先生が、何か言っていたような気がする。 多分、またこの目のことについて言っているのだろう。 この眼が見てしまうモノは、物の壊れやすい個所。 だから、眼鏡をかけなさい。先生が志貴を普通の人間にしてあげる。 「あらゆるモノを”壊してしまう”運命を握ることは、その人に大変な負荷をかけてしまうから。」 先生のくれた眼鏡。 「はい、よくできました。」 先生が誉めてくれた。 きっと、今までのことを誉めてくれたのだろう。 先生の言い付けを守って、必要なときにしか眼鏡は外さなかった。 よく考えて、それから行動した。 「でもね、志貴。」 先生は、ふと悲しそうな顔をした。 「貴方はまた—————、近い——うちに。」 よく聞こえなかった。 「よく考えて、——から行動する—と。決し————」 よく聞こえないまま、先生の声は離れ、そして消えた。 俺は目を覚ました。 --------------------------------------------- 「————おはようございます、志貴さま。」 いいかげん、この呼び方にも慣れてしまった。だけどやっぱりどこか落ち着かない。 ———目が覚めた。 何か夢を見ていた気がする。だけどもう、朝の光で霞のように消えてしまった。 翡翠は相変わらずベットの脇で身じろぎ一つしないで佇んでいる。 「おはようございます、志貴さま。」 部屋中に走る線。 無意識に、眼鏡をかける。それで不快な線は消えた。 「おはよう翡翠。いつも起こしてくれてありがとう。感謝してるよ。」 翡翠は相変わらず無表情を貫いている。だけど俺は、その無表情の下に隠された素顔を知っている。 ちょっとしたことで、すぐ感情が表に出る。 「————————」 かぁっ 今だって、ほんのちょっとした言葉でほんのり赤くなっている。 でも、嫌がってる様子はなく、心なしか嬉しそう。 さて、今日は土曜日だっけ。 夏休み直前とはいえ、学校は休んでくれない。 期末試験の結果に、みんな一喜一憂する。 俺はといえば、アルクェイドからの種々の妨害があったが、何とか赤点は免れた。 あれはあれで、じゃれ付いてくる子犬のようなものだ。 軽くあしらっているつもりでも、つい相手をしてしまう。 まあ、責任の一端は、あんなことをした俺に———— 「って、そんなとこで何してんだ、アルクェイド。」 窓の外を見たら、木の枝の上にアルクェイドが居た。 ぴきっ 翡翠のほんわか無表情が、一瞬にして鉄仮面無表情になってしまった。 手には、どこから取り出したのか、逆さに構えた箒を持っている。 完全な戦闘態勢だ。 箒の柄に、『対アルクェイド様専用、おじゃま虫駆除箒翡翠仕様』などと書かれているのは俺の気のせいに違いない。 おそらくは、アルクェイドが部屋に入ってきたら、問答無用で箒で叩き落とすつもりなのかもしれないが。 「おはよう志貴。今日もいい天気だね。」 険悪な翡翠の雰囲気など目に入らないかのごとく、アルクェイドは街中で自然に出会ったかのような挨拶を返してくる。 「アルクェイド様。何度も申し上げますが、そこは屋敷の入り口ではありません。」 「いいじゃない。わたしは志貴に逢いに来たんだから。玄関から来たら妹に会っちゃうじゃない。妹には用は無いわ。」 翡翠には一瞥をくれただけで、再び俺に向きなおる。 「でねでね志貴、今日は報告があってきたんだ。」 木の枝から窓の縁へ、身軽に飛び移る。と、 ぶおん 本当に問答無用で、翡翠の箒が振り下ろされた。 ばふ 顔面に命中。同時に、黒い粉末状の物がもわもわと広がる。 「きゃっ、なっ、なによこれ。べふっ、はっ、はっ、はくしょん!きゃあああああ。」 アルクェイドが窓から落ちてしまった。 べし。 今のは地面にたたきつけられた音だろうか。 俺は、 あまりのことにあっけに取られて声も出ない。 翡翠って、ここまでヤル人間だったっけか。 もしかしたら俺は、物事の上っ面だけしか見えていなかったのかもしれない。 これからは翡翠に対する認識をちょっと改めよう。 黒い粉末の正体は胡椒だった。 どうやら翡翠仕様というのは本気らしい。 箒の先に満遍なくまぶしてあったようだ。 何でわかったかというと、あの後さわやかな夏風が部屋を通り抜け、その牙の向きを変えた胡椒が俺達に襲い掛かり、俺と翡翠はアルクェイドと同じ目にあったからだ。 どうやら微に入り細に入り念入りに細かくした胡椒だったらしく、しばらくの間部屋中を漂いつづけ、そしてしばらくの間、俺と翡翠はくしゃみに苦しまされることとなった。 「まだまだ改良の余地がありますね、これは。」 涙と鼻水で顔を赤くした翡翠は、そんなことをぽそっとつぶやいた。 頼むから改良なんてしないでくれ、そんなもん。 「で、結局、どういうことなんですか、兄さん。」 居間には、俺、秋葉、翡翠、琥珀、そして、アルクェイド。 完全に遅刻が確定したときの開き直りっつーのをを秋葉も学習したのか、午前8時を過ぎても余裕しゃくしゃくだ。 つまりは、俺に逃げ場が無いことを意味する。 ううう、兄ちゃん妹が学習してくれるのは嬉しいけど、ちょっと今回はまだまだ純情な妹でいてほしかったな。 今朝の騒ぎを聞きつけ、秋葉は事情の説明を俺に求めてきた。 何より部屋中が胡椒まみれなのだ。ちょっとやそっとの説明じゃ納得してもらえそうに無い。 かといって、このまま逃げ出したら翡翠が怒られるのは目に見えている。 俺が何とか頑張るしかない。 翡翠は、一見、申し訳なさそうにうつむいたままだったが、その心の内は定かじゃない。 一方アルクェイドは、一応大人しくしているが、目は翡翠への敵意を露にしていた。 秋葉は、アルクェイドに一瞥をくれた後、俺に向き直った。 怒っているときの秋葉は、ある意味とてもかわいい。 ———と思ってても、それを正直に言うと秋葉の怒りボルテージが上昇するのは経験済みだ。 今日の秋葉はいつにもまして気合が入っている。きっとアルクェイドがいるのが気に食わないのだろう。 ちらっ 秋葉の顔を盗み見る。 じろっ なによっ、何か文句ある?…てなカンジで睨み返してくる。 「えーと秋葉、俺学校があるから。」 前言撤回。今の秋葉に正面きって向かう勇気は俺には無い。 「兄さん、学校にはもう体調が優れないため遅れると連絡をとってあります。急ぐ必要はありません。」 だけど一瞬にして退路も塞がれてしまった。 妹ながらここまで出来る奴だったとは。兄ちゃん嬉しいけど、今回はちょっと悲しかったな。 「ううっ」 ぢっと俺を見つめる視線×6 翡翠は相変わらずうつむいたままだ。 俺は観念して、事情を説明することにした。 一通り説明し終わったあと、今度はアルクェイドの「報告」とやらを聞く番だった。 そもそも、それが原因なのだから。 秋葉は、気分を落ち着けるためか、いつもの紅茶を口にした。 アルクェイドが、意味ありげな視線を俺に遣してくる。 そして、まるで子犬がじゃれ付いてくるときのような嬉しそうな表情で、話した。 「あのね、妊娠したかもしれない。間違いなく志貴の子だよ。」 ぶっ バキャン 一瞬にして秋葉の手に持ったティーカップが有り得ないような擬音を出して砕け散った。 秋葉の髪が30%赤に変色して見えるのは、気のせいであって欲しい。 空中に飛び散った分や、まだティーカップに残っているはずの紅茶が一瞬にして蒸発したと感じたのも、俺の気のせいであって欲しい。 琥珀の持つお盆の上に何時の間にか包丁があるのも俺の後ろの翡翠のいる方向から冷気が漂ってきてると感じるのも絶対に気のせいであって欲しい。 いや、まあ、やることはそれなりにやりはしたが、吸血鬼が妊娠したなんて話、聞いたことも無い。 第一、吸血鬼に月のモノがあって、血を流すなんて話はナンセンスすぎる。 もしかしたら聞き違いか?そうかそうだきっとそうに違いない。 よし、もう一度アルクェイドの言ったことを検証しよう。 俺の耳には、こう聞こえた。 『あのね、妊娠したかもしれない。間違いなく志貴の子だよ。』 俺の耳がおかしくて、聞き違えたのなら、これは間違いだ。正しい日本語に直さなければならない。 そう、例えば 妊娠→人参、間違いなく→マッチ買い置き無く つなげると、 『あのね、人参したかもしれない。マッチ買い置き無く志貴の子だよ。』 …意味が通じない…。 まあ待て、アルクェイドはもともと海外の人間だ。日本語の表現がおかしいこともありえる。 ここは俺の日本語フィルターで文字列を変換してみよう。 『あのね、人参とマッチの買い置きが無くて志貴のことたよって来たの。』 これなら意味が通じる。そうだそうに違いない。 わははははは、何だアルクェイド、そんなことで悩んでいたんか。 大丈夫、遠野家なら人参だろうがマッチだろうが、ダンボール単位で抱えているに違いない。 なんでそんなもんが吸血鬼に必要なのかよく分からないが、きっと必要なのだろう。 「兄さん」 「志貴さま」 「志貴さん」 さすが女性陣。現実への立ち戻りが早い。 一瞬にして俺の意識は現実に引きずり戻された。 だらだらだらだら 俺の背中は、滝のような冷や汗が流れている。 やばい。 俺の、死を回避する本能が告げていた。 誰よりも死に近いところにいたため、死を回避する能力に長けている。 その俺の本能が告げているのだ。 ———ここにいたら、シぬ——— 「それはつまり、兄さんとこの人が、子供が出来るようなことをしたという事ですか。」 「そおだよー。あれだけ深く愛しあったもんねー、志貴。」 またアルクェイドは火に油を注ぐような真似をしてくれる。 やばい やばいやばいやばい やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい ここにいたら、間違いなく死ぬ。 そう思った矢先。 ぶおん 殺気! 俺は咄嗟に身を折ってかわす。 髪の毛をかすって、後ろから翡翠の箒が舞った。 その箒の柄に書かれていたフレーズが、マジックで『志貴様用、デバガメ駆除箒翡翠仕様、改』に書き換えられていたのが何故か見えてしまった。 俺って信用無いんだな…。 「外しましたか。でも次は容赦しません。志貴さま、動かないでください。」 鉄仮面無表情女と化した翡翠が、動かないのがさも当然のように話す。 ヤられると判ってて動かない馬鹿はいない。 そのまま転がるようにして居間の出口を目指す。 「逃がしません!」 ぶわっ 急速に展開される秋葉の檻髪。 瞬く間に部屋中を覆い尽くす。いや見えてなくても判る。 普段は目に見えないが、眼鏡を外せば見える。 だけど檻髪の対策は研究済みだ。 俺は左手で眼鏡を少しずらし、右手でポケットからナイフを取り出した。 ズキリとこめかみに痛みが走る。 「くっ———」 すぐに、空中を赤い髪が波走っているのが見えた。 ザン ザンザンザン 痛みに耐え、空中に漂う赤い髪を、ナイフで切り刻む。 俺はそのまま居間を出ようとする。 しかし、俺をつけ狙うヒットマンはもう一人いたのだ。 「志貴さん、よけたら駄目ですよ。」 だからそんなことを言われて避けない馬鹿はいないって。 ひゅん 銀の煌きが、一直線にこちらへ向かってきた。 俺は咄嗟にナイフで迎え撃つ。 ガキィィィィィィィン ドスッ 俺のナイフに弾き飛ばされた銀光が、くるくると回転して天井に突き刺さった。 銀光の正体は、先ほどお盆の上にあった包丁だった。 俺は唖然として天井に突き刺さった包丁を見つめる。 あの…避けなかったらマジ死ぬんスけど、琥珀さん…。 「それじゃっ、行ってきます。アルクェイド、死にたくなかったら急いでここを脱出するんだぞっ。」 そう捨て台詞を残し、俺は居間を後にした。 天井に突き刺さった包丁が、びいぃぃぃん、びいぃぃぃんと間抜けな音を出していた。 「————ふう。」 一時の休息。心のオアシス。学校にいる間は、少なくとも襲われることは無い。 学校にいる間に、今後の身の振り方を考えておかなくては。 アルクェイドが妊娠したとしたら、それはいい。 そもそもそうなるようなことをした俺が悪い。 ただ、秋葉以下翡翠と琥珀の機嫌を、どうやったら元に戻せるか、それが問題だ。 そういやアルクェイド、無事かなぁ。 あの凶暴化した3人と一緒にいて、無事でいられるとは思えないんだけど。 でも齢800年の、しかも真昼間から動き回れる吸血鬼なら、それほど心配は要らないかもな。 … ちょっとマテ。 あいつは真祖と呼ばれる吸血鬼。これはいい。 俺は17。高校二年生。これもいい。 もしこのままアルクェイドが子どもを産んで、俺とあいつがリンゴーンでチャララララーンでハッピーラッピーな出来ちゃった結婚をしたとする。 婚姻届には何と書きゃいいんだ。 俺。遠野志貴。1X歳。 あいつ。遠野アルクェイド。800歳。 夫婦の年齢差、780とちょっと。 「……………」 いやいやまてまて、逆だったらどうなるか。 あいつ。アルクェイド=ブリュンスタッド。800歳。 俺。志貴=ブリュンスタッド。1X歳。 夫婦の年齢差、やっぱり780とちょっと。 ちっとも解決になってないやんけーーーーーー! はっ いかんいかん、こんなことでは。 年齢の問題はひとまずおいておこう。もっと前向きなことを考えなければ。 そもそもあいつは市民権を獲得しているのか。不法滞在じゃないのか。 とすると入国管理局にバレた時点で強制国外退去。 父無し子にするわけには行かないから、俺も一緒に海外へ。 晴れて俺とアルクェイドとまだ見ぬ我が子は稼ぐ当てもなく路頭に迷い……。 「……………」 そうか、あいつは城を持ってんだった。 アルクェイドの城とやらに滞在させてもらおうか。 …城って、吸血鬼専用なのだろうか。 とすると一般人が使うようなベットなんて無さそうだから、俺はもしかして棺桶で寝起きをするのだろうか。 … ……… …………… ぎいいぃぃぃぃぃ、ばたん。 死の底から甦るような擬態語を発しつつ、棺桶が開く。 俺は白昼夢のような眠りから目覚め、涼やかな夜風を肌に感じる。 「こんばんわ、あなた。今夜もいい月よ。」 「こんばんわ、おまえ。今日もお前の瞳は月によく映える。愛してるよ。」 … 「それじゃ俺は畑を耕しに行くよ。夜のうちにやっとかないと、な。」 「それじゃわたしは山に狩りに行くわ。今夜の獲物も期待していてね。」 じゃきんっ アルクェイドの爪が、窓から差し込む月光を受け煌く。 「……………」 うわあああああぁぁぁ!! ダメだダメだダメだダメだダメだ、こんなんでは。 くっ、これが吸血鬼とささやかな幸せを築こうという漢が背負うべき宿業なのか。 神は俺に、一体どれほどの試練を与えれば気が済むというのか。 もんどりもんどりもんどり 「ったく、相変わらずだな、遠野。見ていて楽しいぞ。」 一人悶々とした想像にもんどりうっていると、有彦が話しかけてきた。 「有彦か…。ほっといてくれよ。」 俺は半ばやけになって応えた。人生の墓場を迎えた時に出る「ほっといてくれ」だ。 いつものやつより3割増しの威力がある。 「ああ、まあ、そんなもんだ。」 何がそんなもんなんだかよくわからないが、有彦の言うことにいちいち指摘しても疲れるだけだ。耳をそばだてている必要は無い。 そう。 有彦にも事情を言うわけにはいかない。 事情を話してしまったら、俺をつけ狙うヒットマン4号の誕生だ。 俺としては、そんな事態だけは何としても避けたかった。 「そうだ遠野。さっきシエル先輩が探していたぞ。凄い剣幕だったから、早く会いに行った方がいいんじゃないか。」 気を取り直し、たわいのない雑談で放課後の気分転換(意訳:現実逃避)をしていると、徐に有彦が話題を変えた。 先輩? 何だろう。 放課後なら教室か茶道部に居るかもしれない。 取り合えず部室に行ってみっか。 … 「遠野くん、覚悟はいいですか。」 いきなりそりゃないよ先輩。 コマンドー張りの迷彩カラー、いや数紋魔術。手には第七聖典。 黒光りする銃身は、いかにも「ぶっ放すぞ」というイメージが全面に押し出されている。 ずごごごごごごごごご シャレじゃない雰囲気が先輩の周りに漂っていた。 なんかもー、問答無用ってカンジ。 どうやら先輩は既にヒットマン5号として活動をはじめていたらしい。 だけど 少々のことで動揺を見せてはいけない。 それは、非日常的な現実を生き延びる上で、絶対的に必要なことだ。 「あ、先輩、どうやら立て込んでいるようですね。すいません、お邪魔しました〜。」 俺はつとめて軽やかに、爽やかに話し掛ける。 ニッと笑った口からこぼれる白い歯の輝き。 この笑顔一発で氷山のように硬く凍った先輩の心も氷一個分くらい溶けた筈さっ。 すすすすす、ぱたん。 覚悟といわれても俺のほうの覚悟はぜんぜんよろしくないので、茶道部のドアを静かに閉める。 ふう、危ないところだった。 そのまま、何事も無かったかのように立ち去り————— 殺気! 俺は瞬時に廊下に身を伏せる。その直後にそれはやってきた。 ばこぉぉぉぉぉぉぉぉん 壁が、一瞬にして吹っ飛ぶ。文字通り、跡形もない。 土曜日の放課後だったのが幸いした。周囲には直撃を受けたかわいそうな生徒は居ない。 それとも俺以外のひとが寄り付かないように結界でも張っているのだろうか。 だけどシャレになってない、マジでシャレになってないよ先輩。 結界張ってりゃ許されるって範囲をとうに逸脱してるよ。 それにこんなもん直撃したら痛いじゃ済まされないよ。 … とにかくここに居たらやばい。 早急に立ち去ら、いや逃げなければ。 と、立ち上がろうとした矢先。 ちゃきん 後頭部に何か金属質の尖ったものが当たる感触とともに、先輩の声がした。 「何か言い残すことはありますか、遠野くん。」 隙のない声色。身動きひとつでもしたら、身体中を蜂の巣にされそうな雰囲気があった。 もはや身動き一つ立てることも出来なかった。 それほどに、先輩の殺気は凄まじい。 俺が「無い」と言ったら3秒後に俺は死んだ親父との面会コースに突入だろう。 いやもしかしたら「教えて!知得留先生!」のコーナーかな。このゲームだったら。 俺の命は不確実だけど、そのどっちかだろうことは自信があるぞ。 だからこの場面は、なんとしてでも先輩を買収…いや説得するしかない。 とりあえず無難なところでカレーパンだろうか。いやいや。 「遠野くん、何か言い残すことはありますか。」 「えーと先輩、念のために聞くけどさ、俺が襲撃される理由って、何?」 「そんな判りきったこと訊かないで下さい。私は教会の人間です。汚染されてしまった人…にあらざるモノを浄化するのは私の使命です。遠野くん、あなたは…あなたは汚染されています。っ、うっく…遠野くん…、短い間でしたが、遠野くんとのひぐ…えっく…」 はらはらはら ひとり自分の世界を築き上げているシエル先輩。瞳は窓の外を一心不乱に見つめ、口調は何故か悲劇のヒロイン調だ。 先輩の頭の中では、きっと第七聖典で貫かれている俺の姿が反芻されているに違いない。 …イっちゃってる。イっちゃってるよ先輩。 俺は心で悲しみとは違う涙を流す。 この先輩の精神世界の壁を崩すのはかなり難しいかもしれない。 …もはや何を言ってもムダって気がする。 でも一応俺の命がかかってるから言うだけ言わなきゃ。 「汚染されてるって、何で。先輩、俺…」 「言い訳してもムダです!全部あなたを通して判っていることですから。」 先輩はぴしゃりと言い放つ。 「俺を通してって、一体何が判ったって言うんだよ!」 「…かつてロアの転生体だった私は、ロアの魂を感じることが出来ます。日本に来たのも、ロアの魂を追ってのことですから。」 話しながらあっさりと泣き止んでるし。 うそ泣きだったのかもしれない。 いや、女の涙は出し入れが自由自在なのか。 「遠野くん、あなたはかつてシキに命を共融され、いわば人間として不完全な状態で、常に死と隣り合わせで生きていました。遠野くん、本来ならあなたは子供時代に死んでてもおかしくない状態だったはずです。」 「ああ、だけど秋葉が俺に命を分け与えててくれたおかげで、俺は生き返った。魂が半分だから、俺も秋葉もまさしく不完全な状態で生きてきたんだ。」 「シキは、私の次のロアの転生体でした。けれども、覚醒した時点でその魂はあなたの物が使われている。…私は、ロアの転生体として、遠野くんの魂を感じていたのです。」 先輩は続ける 「ロアは遠野くんの『直死の魔眼』の能力で完全にこの世から消滅しました。すると、共融されていた魂は開放され、元の肉体に帰ります。そして、私は遠野くんの存在を…ロアの転生体を感じる能力のおかげで、感じることができるのです。」 「えええっ!そっ、そうだったの?」 初耳だ。 「そうです。私と遠野くんは、いわば魂によって結ばれています。普通に考えたら、それは赤い糸で結ばれた運命の相手と言うべきものじゃないですか!その私を差し置いて、何ですか!あんな女と、ごにょごにょ…な事をして!」 …………… 論理の飛躍だ。 先輩はやはり今朝の出来事を怒っているらしい。 先輩には俺を感じる能力があって、それでどうにかして今朝の出来事を知ったのだろう。 先輩は俺を運命の相手と思い込んでいるから、それが許せない、と。 むかっ ああ、なんかもう、腹立ってきたぞ。 何で俺がこんな目に合わなくちゃならないんだ。 こうなったら、先輩にがつんとキツイのを一発——— じゃきん 先輩は再び第七聖典を構えなおす。 ———はやめて、穏やかに話し合いの道を模索しよう。 とにかく、先ずは現状を打開しうる案を検討しよう。前向きに。 候補として、以下の3つくらいはあるかな。 ㈰先輩を口説き落としてなんとかする。 ㈪逃げる。 ㈫秋葉たちを呼んで代わりに闘ってもらう。 ㈰先輩を口説き落とす、を選んだ場合。 気は優しくて俺より力持ち。 チャームポイントはちょっとズレて掛けられているメガネ。 照れた笑い方がとっても素適です。 が、 第七聖典なんのその。 得意技は黒鍵を用いた人体発火現象と、斬っても突いても死なない体。 夫婦喧嘩は先ず勝てません。即効殺されます。 …な、嫁さん二号誕生。 「……………」 ま、まあ、まだ選択肢は二つ残っているんだ。 もしかしたらそのどっちかで生き残れるかもしれない。 ㈪逃げる、を選んだ場合。 問答無用で背後からズドン。 多分その時の描写も3行足らずで終わってしまうに違いない。 その後の「教えて!知得留先生!」ではきっとこう言われるんだ。 『あ〜、その選択肢はダメですね〜。女の子を見捨てて逃げてはいけません。ゲームを最初からやり直しましょう。』 「……………」 ㈫秋葉たちを呼んで代わりに闘ってもらう。 一見互角に見えるが、実はそんなことは無い。 よく考えたら秋葉たちも俺の命を狙ってるんだから、 『本来であれば貴方のような人と組むのは不本意なのですけれど。』 『ええ、やむを得ませんね。ここは、わたし達共通の敵を排除する方が先ですね。』 じりっ、じりっ、じりっ 「ま、待ってくれ俺にも弁解の余地をぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」 …………… …などという結果になりかねない。 マルチなバッドエンディングだ…。てゆーかバッドエンディングしかないやん。 本編で虐げられてた弓塚の気持ちがちょっとだけ分かったような気がする。 ごめんね弓塚。もっと優しくしてやりゃよかったよ。 「…遠野くん、大丈夫ですか。」 先輩が心配そうな顔を向けてきた。どうやらまた俺は遠いところに行っていたらしい。 命を狙ってるくせにヘンなところで先輩も頭にヒヨコ飼っていたりする。 もーヤケだ。こうなりゃ当たって砕けてやる。 「先輩…、俺、生まれる子を父無し子にしたくない。」 「……………………」 「確かに、俺は取り返しのつかないことをしたのかも知れない。だけど今更、過去の出来事を悔やんでもしょうがないと思う。」 「……………………」 先輩は表情を出さない。 「正直に言えば、俺は生まれてくる子を見てみたい。」 「…遠野くん、私は貴方を撃ちます。」 「先輩は大切だけど、でも、引くわけには行かない。」 「避けなければ、死にます。子供にも、逢えません。」 「先輩はそんなことはしない。」 「撃つと言ったら撃ちます。」 「大丈夫。」 「……………………」 「……………………」 どれほど見詰め…いや睨み合っていただろうか。 「ふう、やっぱり遠野くんには敵いません。」 先輩は第七聖典を下ろし、いつもの笑顔に戻った。 「遠野くんの本気がわかっちゃいました。私にはもう撃てません。」 「先輩、それじゃあ!」 「はい、応援しちゃいます。頑張って、いいパパになってください。」 「ありがとう先輩。」 「礼を言うほどのことではありません。それ以前に、私は貴方に酷いことをしたんですから。」 確かに酷かった。 「いいよそんなの。それよりも、先輩の理解が得られたのが嬉しい。」 「ふふふ」 —————————————— 見ツケタ。 居ル。コの街ニ居ル。 あノ女ガ。 臭イを感ジル。 居ル——————。 許さナイ、ボクと、アノ人の繋がりヲ奪っタ、アの女。 アノ人を追っテ偶然に見ツケタだケだけド、ちョウドイイ。 アノ女ハ、殺ス————————— 何者かの気配。 教会から、『追跡者』とよばれたそれは、今静かに、街に辿り着いた。 日も差さない、路地裏。 イる。 だケど、ココニハ気配ガあルダケデ、アノ女は居ナイ。 ある豪邸の前。 居ル。 ダケど、ココには気配がアるだけで、アの女ハ居ない。 交差点。 居る。 チョット前マデ、ココニ居タ気配がアル。 焦ルコトはない。いツカハ追イつク。 何故なラボクは、追跡者だから————————。 —————————————— 先輩を説得し、自信もついて意気揚揚と帰路につく志貴。 この勢いで秋葉達も説得できれば…いいなぁ。 でもちょっと弱気だ。 おぎゃぁおぎゃぁ どうやって説得しようか。 取り敢えず失敗した場合をちょっと想像してみる。 物事は常に最悪のケースも考慮に入れて検討するべきだ。 ㈰翡翠説得に失敗した場合 考えられる事態: ・朝起こしてもらえない ・俺用の箒ではたかれる ・口をきいてもらえない う〜ん、あまり死にそうな目にはあわないかな。 口をきいてもらえないのは痛いかもしれない。 でも確実に、翡翠エンディングだけは迎えられそうもないな。 …ぎゃぁ ㈪琥珀説得に失敗した場合 ・食事を作ってもらえない ・料理の食材として利用される ・薬漬けで動けなくされてからサれる …翡翠よりタチが悪いかもしれない。 特に食事が出来ないのが痛すぎる。 琥珀エンディングどころか、明日の命も持たないかも…。 …ぎゃぁおぎゃぁ ㈫秋葉説得に失敗した場合 ・略奪の能力で、俺がヘンなことが出来ないように精力を根こそぎ奪われる ・ティーカップが砕け散るほどのパワーでぶっ飛ばされる ・血ぃ吸われる 「……………」 …なんか今日は無言が多いな。 ああもうどうしよもう家の前じゃんか。 おぎゃぁおぎゃぁおぎゃぁおぎゃぁおぎゃぁおぎゃぁおぎゃぁおぎゃぁおぎゃぁおぎゃぁおぎゃぁ えーい、何だよこの泣き声は。 考えが纏まらないやんか。 そして振り向いた俺が見たものは。 あからさまに怪しいダンボール箱が一つ。 目をしばたたいてみても一つ。 その中には——— 赤ん坊が——— 居た——— 『妻は赤ん坊を産んで半年で他界し、以来なんとか一人でやってまいりましたが、とうとう私も一身上の都合により左遷され、子どもを養っていくことができなくなりました。名前は"愛印 蹴太院(あいんしゅたいん)"といいます。どうか可愛がってやってください。』 ぷるぷるぷるぷる 手紙を持つ手が震える。手紙は、赤ん坊と共に添えられてあったものだ。 つまりこの子は、 捨て子 だった。 —————————— 「…………………」 秋葉、沈黙すること数秒。 ズゴゴゴゴゴゴ 続いて、どこからか振動が。 「に・い・さ・ん、説明して、いただける、か・し・ら〜。」 「ま、待て、秋葉。お前、絶対に誤解している。」 妹が本気で切れた姿を見るのはこれで二度目だ。 赤ん坊を拾って帰ったら、何も言わずぶち切れた。 「問答無用です!!」 聞いておいてそりゃないよ。 ずがーん 秋葉の傍にあった大理石のテーブルが砕け散った。 「まて!秋葉!、この赤ん坊はひろって—————」 ずがががーん ぎゃぁぁぁぁぁぁ〜 その夜、俺の悲鳴が、遠野家に木霊した。 その後復活した俺が赤ん坊と共に託されていた手紙を見せ、俺の子供じゃないことを納得させたうえで、赤ん坊の今後を話し合った。 まず、親を探す。 遠野の財力を持ってすれば、それほど時間もかからずに見つけられるだろう。 その間、赤ん坊は遠野家で育てることになった。 養護施設では赤ん坊が可哀想との、秋葉の意外な一言が決め手だった。 食堂。 「いや、それにしても秋葉があんなに怒るとは思わなかったな。」 「も、申し訳ありません。兄さん。わたし、つ、つい、あの人の子かと…」 「あの人って、アルクェイドのことか?」 「吸血鬼だから、生まれるのも早いのかと…」 「……………………」 何故だろう、俺の箸を持つ手が震えるのは。 ぴんぽーん 俺が食堂で家族の信頼と絆に疑問を持ちはじめたとき、玄関のチャイムが鳴った。 「やっほー、志貴。」 にぎにぎ 指先を曲げるだけのヘンな挨拶。 アルクェイドだった。正面から入ってきたのは、翡翠に言われたからか。 「どうしたんだ。もう夕食時だぞ。」 アルクェイドは、にこっ、と意味ありげな視線を俺に送ると、 「うん、あのね、赤ちゃん連れてきたよ。」 …またそんな爆弾発言を言ってくれる。 びききっ 俺の後ろで秋葉が触れていた壁に、大きなヒビが入った。 居間。 アルクェイドは、後ろ手に、何かをやわらかい絹の布で包んでいる。 「もったいぶらないで早く見せろよ。」 正直言って俺は気が気じゃない。 今はちょっとだけ心がどっかに旅立った秋葉が、いつ何時戻ってくるやもしれないのだ。 翡翠、琥珀の無言の視線がマジに痛い。 アルクェイドは、後ろ手にもったものの布を向いていく。 そこには 「じゃーーーーん。ねえねえ志貴、これをみてよ。志貴の子供だよ。」 近所の野良猫がいた。 「————————へ?」 見事にお腹が脹れている。生む寸前なのだろうか、動作がどことなく気だるげだ。 なにか、とてつもないことを、 当然のように、アルクェイドは言った。 「ちょっ———おまえ、なに言ってるんだ、いったい。」 俺は猫族だったのだろうか。 いやそれ以前に猫と関係を持った記憶なんて無いぞ。 「なにって、妊娠した猫。公園のトラ猫”志貴”とのこどもができたんだよ。」 その”志貴”とやらはどこのどいつなんだよ。 「…アルクェイド、一つ聞くけど、妊娠したってのはその猫のことか。」 「うん、そおだよー。公園に住み着いているトラ猫の志貴と、激しく愛し合ってたもんねー。」 … そうか。 つまりはそういうことか。 おれはこんなたわいも無い冗談から、今日何度も死ぬような目に会ったってのか。 ぼかっ 「いったーい!何すんのよ、志貴!」 とりあえず問答無用で一発殴った。だかそんなもんじゃ俺の気が納まらない。 おれはアルクェイドにそっと耳打ちした。 「えっ、なになに、面白い話?」 アルクェイドは直前に殴られたことを忘れ、子犬のように擦り寄ってくる。 俺は目いっぱい息を吸い込むと、叫んだ。 「紛らわしいことすんなっっっっ、このばか女ーーーー!!!」 ばかおんなー、んなー、なー 俺の絶叫が屋敷にこだまする。 ——————————————————————————— 夢。 さむい、夜。 ひゅうひゅうと、風が、通り過ぎる。 見渡す限りの、草原。 遠くには、山並。 空には、雲ひとつ無く、 まあるい月に、俺が照らし出されていた。 城が、あった。 中世の城のよう。 跳ね橋は、上がっている。 月が、塔のてっぺんにさしかかっている。 城の後ろに、湖があって——— 夢の中で、俺は夢を見ていることを自覚していた。 なんとなく漂う非現実感。 夢を見ていながら、夢からの目覚め方を忘れたような感じ。 「草原」と「山脈」と漠然とした「城」。 まさに俺の潜在意識の奥底から出てきたかのような、シュールな風景。 夢の中までも俺って殺風景なんだなと半ば自嘲してしまう。 「さむ、い——」 夢の中なのに、”寒い”と言う感覚があった。 いや、寒暖の間隔を感じるのは結局は脳なのだから、脳の中の世界—夢の世界は 日常感じ得る感覚を擬似的に再現することもありうる。 俺は、頭の中で”寒い”という感覚を擬似的に反芻しているに過ぎないのだ。 現実の、感覚で、あるはずがない。 だが、ここは、どこだろう。 俺の潜在意識から構成されていることはなんとなくわかる。 ただ、その風景が今まで見た事もないものだってだけなのだが。 ここは、この風景は、何故存在するのか。 何故に、こんな夢を見るのか。 俺は、何時の間にか、その見たこともない風景の中に居た。 「ここ、は——」 記憶にない。 これは、俺の、夢だ。 だから、夢の世界の登場人物は、俺が意識、想像した通りにしか動かないはずだ。 だけど、モしも— もしも、コノ世界は、ダれかと共有している世界で、誰かの意識ガ俺の意思ト関係なく 動く世界だっタラ— 城の後ろに湖があり、全裸の少女が腰まで水に浸かっていた。 —少女が、いた。 少女とわかったのは、その娘が全裸だったから。 ずっと水面を見つめていた少女が、俺が近づくと、不意に顔を上げた。 緑髪、碧目。 まだ少女といっていい面影。 顔をこちらに向けてはいるが、目の焦点は合っていない。 その視線は、俺を突き抜けて遥か後方を見つめているようだ。 誰だろう。 俺には全く記憶の無い娘だ。 何故湖に浸かっているのか。 そもそも何で俺の夢に登場するのか。 ぱきっ 俺の足元で、枝が折れた すると、それまで俺を認識していなかった瞳が、俺に焦点を結ぶ。 少女の瞳が、俺を捉えた。 「だれ。」 少女は今度こそ俺を認識し、声をかけてくる。 「あ、いや、ごめん。邪魔するつもりは無かったんだけど。」 俺の、夢の、筈なのに。 少女は俺の意思とは無関係に動いていた。 「キミ、だれ。」 少女は思い出したように両手で胸を隠す。 「キミ、なんでここにいるの。ここはボクの世界だよ。他人が入ってこれるはず無いんだよ。」 何を言っているのだろうか。この少女は。 これは俺の夢だ。だからここは俺の世界だ。 俺は少女が全裸であることも忘れ、少女に反論した。 「君こそ誰だ。ここは俺の夢だ。」 ———感覚ノ共有——— ふと、この世界に第三者の傍観者がいて、俺らに語りかけているような感じがした。 ———カん覚のきョウ有——— もう一度。 ———夢ヲ、夢と、繋グ、だケ——— 夢を夢と繋ぐ?感覚の共有? 頭の中に語句が浮かび上がってくる。誰に言われるでもなく。 例えるなら、小説を読みながら、語句を頭の中で反芻しているようなものだ。 見て、読んで、反芻して、初めて文章としての概念を理解する。 文章の意味だけを概念として受け止める小説の読み方は、まず出来ない。 そのときの感覚に似ていた。 頭の中に、ポッと、単語が思い浮かぶ。 何かが、言った事を俺の頭で反芻させてるみたいだ。 「…ボクはカイ…カイン。キミは?」 「えっ?」 「だから、なまえ。」 「あ、ああ。俺は、遠野志貴。」 「…どうやら同じ夢を見ているみたいだね。」 「…ああ。」 感覚の共有。 俺達は、誰に言われるでもなく、それが真実だと判った。 と、俺は少女が全裸だったことを思い出した。 夢の中で俺が作り出した偶像などではなく、この世のどこかに存在している、確かな人格なのだ。相手は。 「うわっ、たっ、ご、ごめん。気が付いたらここに来ていたんだ。ほんとにごめん。今すぐ消えるから。」 俺は身を翻す。 「まって。」 と、少女は俺を呼び止めた。 「キミ、なんか懐かしい匂いがする。」 少女は、全裸であることにも躊躇せず、湖からあがって俺のまわりを歩く。 くんくんくんくん なにごとか俺の臭いをかいでいる。 …ものすごく誰かを髣髴させる行動だ。 やがて少女は俺の正面にまわり、俺の眼を見つめる。 「キミ、だれ」 少女は三度聞いてきた。 「だから俺は、遠野志貴。ただの高校生だよ。」 「ううん、違う、そんなんじゃない。」 少女は、俺の言葉を否定する。 そして、何事か考え、何事か結論付けたようだ。 「そっか、そう。きっとそうなんだね。あは、やっと見つけた…。やっと追いついた!」 満面の笑みを浮かべ、少女が抱きついてきた。 「ちょっ、お、おいっ。」 「やった、やっと見つけた。見つけたんだ!」 「ずっと探していたんだ。ロア———」 「なっ———」 夢は、そこで、途切れた。 ———————————————————————— 夢。 その街は、汚染され尽くした。 住人の全ては吸血鬼の僕と化し、街には生物が居なくなった。 昼は静寂の坩堝。 夜は闇の住人が徘徊する。 私は、死者どもの主として、この街に君臨していた。 ここはヨーロッパの一国。 私の名前は、ロア。 永遠の命題を求めてやまない者。 ———オまえは、許さナい——— 暗転。 17代目ロアとして、アルクェイドに殺された後、わたしは死ねなくなった。 殺されて、殺されて、それでも生き返る。 やがてわたしを殺すことに飽きた人たちは、わたしを殺すかわりに洗脳することを思いついた。 暗転。 ———ユるさなイ——— 教会の人間としてロアを追いつづける途中で、わたしは一匹の狼に出会った。 いや、それは正しくない。 狼は、既に狼でなくなっていた。 不浄なるものは全て滅す。 ゆえに、わたしは狼を封印した。 ———…イ——— 場面が変わる。 時代が変わる。 国も変わる。 ここは日本。 わたしは高校生を演じていた。 ごく平凡な日本の高校。 そして、 遠野くんが居る町。 「おはよう先輩。」 「おはよう遠野くん。きょうもいい天気ですね。」 ごくごく平凡な日常。 なにものにも替え難い日常。 「先輩、今日の昼…ガ…かレーたべ……ギッ、ギギ………ヨね。」 「と、遠野くん!?」 「ギッ……ガッ……」 「遠野くん!どうしたんですか!しっかりしてください!」 遠野くんは死んでいた。 いや、わたしが殺した。 わたしが、汚染したのだ。 死者は冥界に。 不浄なるものは許すべからず。 それが、教会の掟。 だから、わたしは 遠野くんを、滅ぼした。 ———そんなっ!——— 「———嫌ですっ!遠野くん!死なないで下さい!!わたしの———」 わたしは、自分の声で目を覚ました。 ここは、わたしの部屋、自分のベッド。 「———夢、ですか。」 ふう わたしはほっと一息ついた。そして感じた。 くんっ 微かに漂う何者かの臭い。 いや、臭いではない、何者かの、気配。 先刻まで、きっとここにいたのだ。 「———夢魔。」 それ以外、あんな夢をみる理由が無い。 「———もしかしたら、何か悪いことの前触れなのかもしれません———」 わたしは、そっと呟いた。 夜は更けていく。 【ニ日目(日曜日) 】 また———夢か? 夢の続きなのか? 古い城、平原、山。 そして、城塔に差し掛かった満月。 俺は、あの少女と向かい合っている。 くらい、くらい、夜なのに。 彼女の体は、月の光を受けて銀に輝いていた。 「キミは、だれ?」 「俺は———遠野…志貴。」 「ううん、ちがう。」 少女は俺の答えに満足しなかった。 「匂いでわかるよ。キミは、ちがう。」 「俺は——志貴だ。」 「だから、ちがう。」 「——なら、俺は?」 「キミは……?」 ———誰なんだ?——— 「思い出してよ、ボクのこと。覚えてない?」 一瞬の明滅。 俺の脳裏に、覚えの無い光景が浮かんだ。   草原と森。   旅をする俺が、動けない少女と向かい合っている。   その少女は、俺を警戒しているようだ。   俺は——— 暗転。 「わから———ない。」 俺は否定する。 目の前には、少女がいる。 緑の髪と、碧の瞳をした少女。 少女は、今一度、懇願するような瞳を俺に向け、呟く。 「———————ロア———」 「違う!ロアは、いない!俺が、殺した!」 「ちがわない。キミは、ロアだよ。」 ———わからない——— 少女の雰囲気が変わった。 ほのかな喜びから、暗転。 「——やっと見つけたのに、そんなのないよ…。」 少女の目が失望に彩られる。 「そんなのないよ!!」 少女は叫んだ。 ———そして、闇へ。 誰もいない二人きりの空間。 少女の叫び声は、俺以外の誰に聞かれることもなく、周囲の闇に吸収され消えていった。 その、闇が。 周囲の闇が、意思を持っているかのようにぞわぞわと蠢く。 たちまちのうちに、闇が、少女の周りを覆う。 「そう——なら——。」 少女の目の光が失望から憎悪へと変貌する。 闇は形を持って、少女の身体をぐるぐる回る。 「なら——?」 「キミを、殺すしかないね。」 「——えっ?」 「キミを、殺して、キミの、命を、開放してあげる。そうすれば、きっとあのひとは復活してくれる!」 「なっ!」 暗転。 場所は、公園。夜。 人影は無い。 俺は、自分でも気づかないうちにここにいた。 それは夢独特の日現実感がもたらす、ただの現実。 何かが空を裂いて向かってくる。 ざしゅ 何かが、俺の服の袖口を切り裂く。 続けざまに飛翔音。 「くっ——」 俺は無理やり身を捻ってそれをかわそうとする。 俺は前のめりに体制を崩す。そこを待ち受けていたように、とどめの一撃。 きぃぃぃぃぃん 俺は咄嗟にその一撃をナイフで受け止めた。 相手は、そのまま素早く飛び退る。 ———ナイフ?   なんで俺はナイフなんか持っているんだ?——— そんな思考もすぐに打ち消される。相手の攻撃は容赦なく続く。 頭上から、重々しい唸りが落下した。 耳を劈く咆哮と、荒れ狂う息吹。 一瞬の明光。 闇が、俺を吹き飛ばした。 近くにあった樹木がが巻き添えを食らって闇に飲み込まれる。 気が付けば、闇。 場面は、夢独特の不条理さで変化していく。 でも 夢だと心の底では判っているのに、夢のはずなのに、この闇は、現実感をもって俺の周りを覆う。 俺は苦痛に身悶えし、荒い息を吐き出す。 俺だけが、闇の中で浮いている。 吹き飛ばされた衝撃で、体中が痛い。 これは、夢で、あるはずなのに、からだじゅうが、いたかった。 ———なんなんだ、一体。俺が狙われる謂れなんて無いぞ——— まだ相手は攻撃を続ける。 煌く、銀光。 銀の煌きが、闇の中にあってさえなお輝きを放つ。 銀光は、一直線に俺めがけて襲い掛かる。 「くそっ」 頭部を狙ってきたそれを、僅かに首をかしげてやり過ごす。だが、銀の一閃はこめかみをかすり、その衝撃は軽い脳震盪を起こさせる。 だけど俺は脳の悲鳴を無視して、そいつに袈裟斬りの一撃を放つ。 だが、闇が銀光の周囲を覆い、狙いはかわされてしまった。 轟音。 再び俺は闇に吹き飛ばされる。 一瞬目の前が真っ暗になり、思考が途切れる。 その一瞬を逃さずに、銀光は飛び掛ってくる。 ガキィィィィィ ナイフを相手の攻撃に絡ませ、すかさず左腕で銀の塊をかかえこむ。 銀光の正体は、輝ける狼だった。 そう思ったのもつかの間。 銀狼は、後ろ足で俺の腹を蹴り、首を捻って俺の手を振り払う。 二度も吹き飛ばされたせいで、手足の感覚が覚束ない。 力が入らないのだ。夢のくせに。 このままでは、殺られる。 夢というものは、その人間の理性を司る新皮質が休憩を取っている間、本能を司る旧皮質が、海馬に有る記憶を無意識下で選択的に呼び起こすことで見るものだ。 だから、夢の中の俺は、普段よりも生に対する執着が強いのかもしれない。いや、理性の歯止めが弱いだけなのかもしれない。 死というキーワードが切羽詰的な現実として連想された瞬間、俺の中で、カチリ、とスイッチが入った。 俺は、躊躇することなく眼鏡を外す。 とたんに俺の眼は、闇を、闇として認識しなくなった。 この世界にあるのは、ただ、点と線だけ。 ざっと周囲を見渡す。 点と、線と、点と、線と、    点。 居た。 周囲に見えるのは、闇の”死”を象徴する線と、銀狼の”命”を象徴する点。 銀狼の命だけが浮いて見える。 銀狼が、再び牙を剥く。 ———点が、近づいてくる。——— あの点を突けは終る。 なら、突けばいい。 俺は腰を落とし、唯一点、銀狼の心臓のみに注視した。 銀狼が飛び掛る。 俺は神速の速さでもって、一直線に心臓の点めがけ突きを放つ。 ズプリ 突きは、正確に心臓を捕らえた。 はずだった。 心臓を貫いたと思った瞬間、俺の左肩に激痛が走る。 「ぐぅっ!」 銀狼は、心臓を突かれて平然としていた。いや、確かに心臓を貫いたのに、その軌跡は空を切っていた。 心臓付近には、周囲の闇と同質の「闇」が、蠢いていた。 「馬鹿な!」 俺は確かに心臓を貫いたはずだ。ナイフを突き立てる瞬間、それは確信に変わった。それなのに、何時の間にか狙いが外れている。 ズキッ 左肩が痛む。 食いつかれたのではなかった。しかし、肩から先はどういうわけが痺れて全く感覚が無かった。 それから先は、まるで無間地獄にいるようだった。 俺は相手の点めがけ様々に突き、切りつけるのだが、その狙いは何れも狼の周囲の闇に逸らされてしまう。 その度に俺の身体の何処かの感覚を奪い、俺は徐々に動きが鈍くなっていく。 キィィィン、ガキッ、ガキィィィィィン 幾十度目かの銀狼の攻撃をいなす。しかし、俺はもう立っているのがやっとの状態だった。 はぁー、はぁー、はぁー 息が荒い。 対し、銀狼はまるで獲物が弱りきるのを待つかのように俺の数メートル手前で佇んでいた。 がくっ 膝が崩れ落ちる。 銀狼は、それを待ち構えていたかのように最後の攻撃を飛び掛——— 俺はそこで、目が覚めた。 ------------------------------------------------------ 「おはようございます、志貴さま。もうそろそろお起きになってください————」 翡翠に促され、俺のいつもの日常が始まる。 俺は軽く伸びをして、翡翠に挨拶を返す。 「おはよう翡翠。」 何か、夢を見たようだったけど——— そう、確か、俺をロアとか呼んだ少女がいた。 城と、湖と。 俺は少女と出逢ったんだ。 その後、何かあったような気がする。——何だっけか……? ふと、意識の底で忘れていることがあるような気がした。 だけど、思い出せなかった。 暫く考えたが、何も思い出せない。 何故か、心臓の鼓動がいつもより早く、汗をかいていた。 思い出せない。 なら、きっと、 思い出せないなら大切なことではないのだろう。 「おはようございます、志貴さま。」 今日は、夏休み直前の、日曜日。 今日も爽やかに晴れ渡っている。 なにげに時計を見たら、既に10時30分だった。 「げ」 「何度も起こしに来たのですが、志貴さまは相変わらず静かに眠っておられましたので。」 我ながら自分の鈍感ぶりにあきれてしまう。 俺の命が半分しかなかったため、文字通り「死んだように」眠っていたときはまだ自分に理由をつけられた。 ロアを消滅させた後は、奪われていた命も取り戻し、肉体に故障を抱えながらも俺は普通の人間として暮らしていける筈なのだ。 事実、休日とはいえこんな時間まで寝過ごした試しが無かったのに。 やはり夢見が悪かったせいなのだろうか——— 「ああ、すぐに着替えて下りるよ。起こしてくれてありがとう。」 「かしこまりました。」 メイド服がよく似合う少女は、礼をして、部屋を出た。 居間に下りると、何やら話し声が聞こえる。 琥珀や翡翠は自分の仕事をしているだろうから、居間には秋葉くらいしかいない筈なのに。 ああそうか。 居間には秋葉と、赤ん坊がいるのか。 俺が居間に入ったら。 なんと秋葉が、赤ん坊抱きかかえていた。 秋葉は、赤ん坊の抱き加減に戸惑いながらも、赤ん坊が可愛くて仕方が無い、といった様子だ。 無邪気にじゃれ付いてくる赤ん坊を、軽くゆすりながらあやしている。 視線を赤ん坊の目に合わせ、首はやや傾げている。口元にはうっすらと微笑みすら浮かべている。 いつものお嬢様然とした姿からは想像もできない。 でも、その姿は、普段見せない姿でもあり、俺的にかなり新鮮だった。 「……………」 いつもと違う秋葉の様子におはようの挨拶を掛けられないでいると、秋葉のほうから俺の存在に気がついた。 「あ゛あ゛っ!にっ、ににに兄さん!」 「お、おはよう秋葉。」 かぁぁぁ 見られてはいけないものをよりによってこの俺に———という顔。 そのまま二秒ほど硬直していた。 「おっ、おはようじゃありません兄さん。休日だからといって気の抜きすぎです。遠野家の人間なら、休日であってもいつも通りにおきていただかなくては困ります。」 あわてて取り繕うが、もう遅い。 「いやー、秋葉も赤ん坊を可愛がってくれているようで嬉しいよ。」 「ばっ、馬鹿なことを言わないでください。この赤ん坊は、あくまでも一時的に家に置いているだけです。親が見つかればすぐに返します。」 「なっはっはっは。判った判った、そういうことにしておこうか。」 「そういうことじゃありません!わ、私は本当にこの子のためを思って——」 「それより腹減ったなー、何か無いか…って、おお、さすが琥珀さん、俺の分の朝食も用意してくれているんだ。」 俺は秋葉を軽くあしらい、食堂に向かった。 「兄さん、聞いてるのですか!わっ、私は別に——」 後ろのほうで秋葉が何か言っているが、無視した。 多少、俺の方も照れがあったのかもしれない。 何せ滅多に見られない…いや、始めて見た秋葉の母親ライクな微笑だ。 俺は食事を終え、居間で秋葉と寛いでいた。 「兄さん、先刻のことは、嘘ですからね。」 「嘘って、何が?」 「だ、だから、私が赤ん坊と、そっ、その、ごにょごにょ…」 再び秋葉赤くなる。 赤ん坊は、今は居間のソファに寝かせてある。 その赤ん坊をはさんで、俺と秋葉が座っていた。 俺がいるからか、秋葉はあえて赤ん坊から視線を逸らせる。 …そういえば今日は休日だった。 「なあ秋葉、お前、休みの日はいつも何してんだ。」 ちょっとかわいそうだったので、話題を変えてやる。 「休日ですか。う〜ん、そうですね。私は遠野家の当主ですから、休日とはいえ休んでばかりもいられません。まだ相続の話も完全には終っていませんから弁護士と済ませなければなりませんし、事業の管理もしなければなりません。夕方にはバイオリンの稽古もあります。」 『遠野家の当主』というくだりから、ビシバシ意味ありげな視線が投げかけられてはいた。 冷たい、というよりは、何某かの期待に満ち満ちた視線。 まるで、兄さんが一緒にやってくれれば嬉しいのになー、と言わんばかりだ。 もしかしてヤブヘビ? 「そ、それなのに今日は休んでいていいのか」 「はい、今日はたまたま何も無い日ですから。夕方の稽古も、先生が『夏休み直前に旅行に行けばラッシュも避けられる—』とかでお休みですし。」 つまり秋葉は今日一日暇ということか。 さらに期待に膨らんだ視線を送ってくる。 「兄さん、休日とはいえ、兄さんにもやることがあるんじゃないですか。」 「やること?」 深みに嵌ると判ってはいても、そう聞き返さずにはいられない—— 「遠野家の人間として、家族サービスに努めるとか、家族をつれてどこか遊びに行くとか、妹と一緒に外に出かけるとか——」 つまり、私をどっか遊びにつれてって、と言っている訳か。 「いや、だってほら秋葉、俺って金無いし。」 「金銭面なら私がいくらでも都合します。そんなことよりも、兄さんが連れてってくれる、ということが重要なのですから。」 じりっ、じりっ 秋葉がにじり寄ってくる。 ずりっ、ずりっ 俺は無意識に後退する。 「あ———秋葉、」 俺は返答に詰まり、何気に視線を落とす。 赤ん坊が目に入った。 赤ん坊ってのは、動きたい盛りなのである。 いまこの瞬間も、はいはいをしようとしてソファから落ち——— 「あ、危ない!」 秋葉も赤ん坊の状態に気が付いた。 俺と秋葉は咄嗟に手を伸ばす。 間一髪、赤ん坊を下から抱きとめる。 俺と秋葉の手が重なった。 「「あっ」」 期せずして、俺と秋葉の声が一致する。 じたばたじたばた むーむー、むー 赤ん坊は、ソファから落ちそうになったにもかかわらず元気にあばれている。 触れ合った手から、秋葉のぬくもりが伝わった。 俺は秋葉の目を見つめた。秋葉も俺を見つめ返してくる。 「………………………」 「………………………」 じたばたじたばた 二人とも無言。 赤ん坊を支えながら、触れ合う、二人。 赤ん坊を支えたままの不自然な姿勢から、俺達はぎこちなく立ち上がる。 いつも、見慣れているはずの、妹なのに。 今だけは、何故か、違って見えた。 「あの…兄さん———」 秋葉はじっとこちらを見つめている。 俺はなんとなしに気恥ずかしくなって、視線を逸らした。 それで秋葉も我に返ったのか、俺から視線を外す。 二人で支えていた赤ん坊は、秋葉が抱いた。 じたばたじたばた 赤ん坊はひっきりなしに動く。 「………………………」 「………………………」 俺達は、そんな赤ん坊の様子を、満足げに見つめていた。 秋葉は、さっき少しだけ見せてくれた、あの微笑みをしている。 「秋葉…」 「兄さん…」 俺と秋葉の距離は驚くほど近い。近かった。 もう十数センチ近づいたら、唇と唇が触れ合—— 「兄さん…」 秋葉は場の雰囲気に押されたのか、いつもに無いほどのたおやかな声で。 「兄さん、私………、兄さんのことが——————むぎょ。」 んっ? 赤ん坊ってのは、暴れたい盛りなのである。 俺は、デジカメという文明の利器をこの瞬間ほど欲しいと思ったことは無かった。 秋葉が、おそらく生涯そう何度も無いであろう、素直になった瞬間、秋葉の鼻に突っ込まれる赤ん坊の指。 ほじほじほじほじ 「ふがふがふがふが」 をを、秋葉のこんな姿も滅多に見られない代物だ。 夏休みにバイトした金は、先ず一番にデジカメに使おう。 俺は心に誓った。 秋葉は思考停止している。お嬢様ライクな脳みそでは、この現実が把握できていないのだろう。 「ぶへっくしっっっっ!」 お嬢様らしくないくしゃみをする秋葉。 その勢いで赤ん坊の指も外れる。 「きゃっきゃっ」 この命知らずな赤ん坊は本当に嬉しそうだ。まったくもって将来大物になるぞこいつは。 そのまま、二秒。 「なっ!ななななななななっ!」 秋葉は鼻を手で押さえ後じさる。 やばいっ 俺は素早く秋葉の手から赤ん坊をひったくった。 「ななななななななっ、ななっ!」 ぶちん ナにかか切れる音がした。 きっと、切れてはいけない何か。 俺には、どこぞの神が心臓と羽の重さを比較して『この者地獄に落ちるべし』といった判決の音のように聞こえた。 思わず秋葉の髪は完全に赤く染まっている。 その目じりには薄く涙さえ浮かべている。 「兄さん、その物体を渡してください。」 秋葉の中ではこいつはもはや赤ん坊として認識されていないようだ。 何もそんなに激怒しなくても。 「まっ、待てっ、秋葉!いくらなんでも赤ん坊のした事だ!そんなに熱くならなくてもいいだろ!」 「いいえ許しません。その物体はよりによって兄さんの目の前で恥をかかせてくれました!」 ゆらり 秋葉はゆっくりと近づいてくる。 ああもうどうしてお前はそんなに極端なんだ。 じりっ、じりっ 秋葉がにじり寄ってくる。 ずりっ、ずりっ 俺は無意識に後退する。 おんなじ表現だけど、さっきとはちょっと意味合いが違う。 「な、なあ秋葉、話し合いの余地は無いのか?」 「いいえ!兄さん、それは存在してはいけない物体です。私が消滅させます!」 ばばばっ 急速に展開される秋葉の檻髪。 ナイフを持たない今、俺にそれをかわす術は無かった。 あわや俺と赤ん坊の命運も尽き——— 「わっ、わかった秋葉!公園!公園に行こう、なっ!」 「えっ?」 ぴたっ 俺らめがけて襲い掛かってきていた檻髪が空中で止まる。 「やっぱ休日くらい家族と共に出かけないと、うん。いや〜俺も前々から秋葉をつれてどこか行きたいと思っていたところなんだ。丁度いい、今まで行けなかった分も含めて、これからはいろいろなとこに行こう、な。」 「………本当ですか、兄さん。」 一転して、秋葉の表情が綻ぶ。 ぷしゅううううう 何か空気の抜けたような音がどこからか聞こえてくる。 どうやら檻髪も収まったようだ。 「にっ、兄さんにしては珍しいじゃないですか。わ、判りました。兄さんがそこまで言うのでしたら行ってもいいですよ。」 秋葉は照れ隠しか、いつものお嬢様に戻ってしまった。 「何してるんですか兄さん。早く行きましょう。」 … …女って、どうしてこんなに感情の切り替えか早いんだろう。 出かける俺と秋葉とベビーカーに乗った赤ん坊。 翡翠と琥珀は仕事があるのだから、休日で、何もすることがない俺達が赤ん坊の世話をするのは当然のことだ。 「ふふっ、夢が一つ、叶ってしまいました。」 でも秋葉は先程のことはもう全く気にしていないようだ。 「夢?」 「ええ、こうして、家族と一緒に出かける夢です。」 「家族と…。」 思えば秋葉には家族との思い出があまりにも少なかったのだろう。 幼いころから課せられる当主としての責任。 父親もシキも、遠野としての血筋に侵され、まともな家族愛など営めなかったに違いない。 俺には、有馬の義母さんがいた。義理だけど、妹もいた。 真似ッこの家庭だったけど、それでも秋葉に比べれば、家族の交わりはずっと多かったに違いない。 「…この。ベビーカー。私の子供のころのです。」 俺がからからとベビーカーを押していると、秋葉が話し始める。 「あん?」 「もう顔も覚えていない、母親。生まれたての私をこのベビーカーでいろいろな場所に連れて行ってくれたそうです。」 「………」 「買い物に行くにも、商店街にいくにも、ただ散歩に行くにも。そして、公園に行くにも。」 秋葉は続ける。 「ささやかな場所。普通の人にとっては、何の変哲も無い、場所。そんな場所であっても、私にとっては、家族と一緒にいられた筈の、数少ない思い出です。」 「…秋葉。俺じゃ、不満か?」 「えっ。」 「俺じゃ、不満かと聞いている。俺はお前の兄だ。こうしてお前と一緒に公園に行く。それじゃ不満か。」 カラカラカラカラ 「俺はお前と居られて、楽しいと思っている。それで、充分じゃないのか。」 「はい…」 俺は秋葉の顔を見ていない。ずっと正面を向いたままだ。 だから、秋葉が今どんな表情なのか、わからないでいる。 雰囲気から、秋葉は、ちょっと泣きそうな表情をしていたと思う。 カラカラカラカラ 「兄さん、腕を組んでいいですか。」 「何だ、いきなり。」 「私、家族で腕を組むのに憧れていました。父は…甘えさせてくれませんでしたから。」 「………俺なんかの腕でよけりゃ、いくらでも組んでいいさ。」 「ありがとう、兄さん。」 秋葉はおずおずと腕を絡めてくる。 この瞬間、俺達は本当の家族になった気がした。 秋葉の方は、もしかしたら多少違う意味もこめていたかもしれないが。 俺と秋葉は、寄り添いながら公園までの道のりを歩いた。 公園の砂場で遊ぶ、赤ん坊。 ベビーカーを脇に、ベンチで日向ぼっこをする俺と秋葉。 俺達は、無言だった。 けれど、気まずくて無言、というわけでもない。 家族だからこそ、いっしょにいて、それだけで心地よくなれる存在。 話さなくても、気持ちは充分に伝わる。 赤ん坊は、砂で山を作っている。 まだ手つきも覚束ないし体も安定しないから、片時も目を離せない。 でも、赤ん坊を見る秋葉の目つきは優しく、そして楽しそうだ。 今この瞬間が秋葉にとって、満ち足りた時間そのものなのかもしれない。 俺は、横目で秋葉の様子をうかがう。 何とはなしにどきどきしてしまう。 腕を組んだままなのが、ちょっと気まずい。 「あっ」 秋葉が声をあげる。 見ると、赤ん坊が砂場に顔から突っ込んでいた。 転んだのだろう。 秋葉が絡めていた腕を解く。 たたた、と一直線に赤ん坊の下に駆け寄った。 「うわぁぁぁぁぁぁぁん」 一拍置いて、赤ん坊が泣き始めた。 背中をさすり、抱き上げ、あやしてやる秋葉。 俺も、ポケットからハンカチを取り出し、顔についた汚れを拭き取ってやる。 やがて赤ん坊も泣き止んだ。 汚れを拭いてやってる俺の手が遊んでくれてると思ったのか、しきりに、ちっちゃい手で俺の指をつかむ。 くりくりっとした赤ん坊の指が何故か面白くて、俺も秋葉も笑っていた。 「ほっほっほ  可愛い子じゃのう。目元は父親、輪郭は母親にそっくりじゃ。」 突然、家族の団欒に見知らぬじいさんか割り込んできた。 どう見ても高校生にしか見えない俺と秋葉。 だけど秋葉は赤ん坊を抱いていて、俺は傍に立っている。 この関係を見て、そのじっちゃんが思うところは。 ㈰誰一人血の繋がっていない赤の他人。 ㈪新妻に若旦那、そして妻の胸に抱かれた二人の愛の結晶。 …………… わはははは。㈰だよな、じいさんそうなんだろ。㈰だそうだそうに決まってる。頼むからそうだと言ってくれ。 「それにしても似合いの夫婦じゃのう。おしどり夫婦ってとこかの。ほっほっほ。」 そんな口調だけは好々爺にならなくていいから、頼むよじいさん。 「あ、あの、あの、兄さん———」 「兄さんだなんて隠さんでもええ。若いってことはそれなりに苦労するかも知らんが、堂々としてればええ。」 またこのじいさんは言ってくれるぅぅ。 俺は心の中で滂沱する。 かぁぁぁ 秋葉はもう、完全に熟したトマトになってしまった。 結局、言うだけ言って俺達の弁解を何一つ聞き入れず去っていったじいさん。 あんた何者なのと聞く暇も無かった。 公園からの帰り道、非常に気まずい沈黙が俺達の間に流れていた。 —————————————————————————— 夢。 またあの夢だ。 妙に現実感のある夢。 夜はふけていく。 いいかげん話し飽きてきた。 時計を見ると、もう午前4時だった。夜明けまで後もう少し。 アルクェイドと、延々6時間以上も話しつづけていたことになる。 ここは、ホテル。 俺は、アルクェイドと、ネロから身を隠すために、また、アルクェイドが寝ている間の護衛役としてホテルにいた。 今までこれと言った異常も無く、アルクェイド本人は緊張している素振りすらない。 アルクェイドはしきりに俺に話し掛けてくる。 弱っているのなら眠ればいいのに、「話しているほうが楽しいから」と、結局こうして、二人で向かい合っている。 だけど、話しているうちに、俺はアルクェイドをバケモノとは思わなくなっていった。 何気ない動作、雰囲気、話し振りを見ていると、危ない単語がポンポン出てきてはいるが、 本当は、吸血鬼の振りをしているただの目の紅い人間なんじゃないか、そう思えてしまう。 俺がアルクェイドを前に殺していなければ、吸血鬼であることすら信じなかったに違いない。 そんな気がする。 ぐうぅぅぅ 腹が鳴った。 そういえばホテルに来てから何も口にしていない。 「お腹が減っているの?志貴。せっかくホテルに泊まっているんだから、ルームサービスを頼んだら?」 「いや、いい。俺は護衛としてここに居るんだ。飯を食ったら緊張感が緩んでしま———」 アルクェイドを振り返り、愕然とした。 アルクェイドの背中の、窓。 その向こうに、あのときの蒼い鴉が、こちらを見つめていた。 ゴン、という重苦しい響きが、ホテル全体に響いた。 ネロの、狩りの、始りだった。 耳を澄ませば、下のほうでなにやら騒ぐ音が聞こえた。 「—————」 俺達は、部屋で息を潜めていた。 アレから、二分。 ホテル全体を揺るがす衝撃から、まだそんなにたってはいない。 しかし、下の階のがやがやと騒ぐ音は、かき消すように消えていた。 アルクェイドは、戦えない。 ネロと今戦ったら、逆に消滅させられてしまう、そう言っていた。 だから、俺が、アルクェイドを護らなければ。 ———様子を見に行くべきか?——— いや。 今はまだ、ここで様子を見よう。 無闇に外に出て戦うのは危険だ。 ナイフを構え、じっと外の気配を探る。 下の階は、静寂が支配していた。 人の気配は、全くと言っていいほど、無い。 俺は、眼鏡も外した。 脳が許容する以上の情報、世に満ち溢れた死が、強制的に俺の目に飛び込んでくる。 吐き気を催す程の静寂と世界に渦巻く死の中、 ばんばんばんばん 突然、ドアをたたく無数の音が響いた。 「志貴、覚悟はイい?」 ばんばん、がんっ、ドカッ、バキッ ドアをたたく音はどんどん激しさを増す。 そんな中、ぽつりと、アルクェイドは呟いていた。 ばぁぁぁん ついにドアが開け放たれた。 そして、獣どもが、部屋に闖入した。 ぞわり ぞわりぞわり 背筋を強烈な悪寒が走る。 部屋になだれ込んできた、動物の形をしてはいるが動物ではない、異形のパケモノども。 獣どもは、俺とアルクェイドに一斉に飛び掛ってきた。 俺は上体を沈め、まずアルクェイドに飛び掛ったドーベルマンの喉笛を切り裂く。 ドーベルマンは勢い余ってアルクェイドを飛び越え、壁に激突した。 続いて左腕で俺に飛び掛ってきた狼の顎を半ばアッパーカット気味に持ち上げ、腹に走っている3本の線を切り裂く。 次の相手はゴリラと鰐だ。 ゴリラは、岩をも砕く拳を叩き付ける。 俺はそれをかわし懐に飛び込むと、心臓に見える点めがけ突きを放つ。 右足元から鰐が口を開き足に噛み付こうとしたため、俺は咄嗟に右足を浮かせそれをかわす。 そのため、ゴリラに当てた突きの狙いが逸れ、ゴリラをその一撃で殺せなかった。 胸からドス黒い血を噴きだしながら、激昂したゴリラは俺の腹に拳を見舞う。 まともに食らえば、ただの一撃で肉体が破壊されかねない。 俺は身を捌き、間合いを取ろうと必死で後退したが、鰐が次の攻撃に入るほうが早い。 床についた直後の足めがけ、再びその巨大なアギトで食いちぎろうとする。 やられる——そう思った刹那。 その頭部に、横から凄まじい勢いで爪が襲い掛かる。 アルクェイドの、一閃だ。 鰐の頭に食い込んだ爪は鮮血を巻き上げ、さしもの鰐をよろけさせる。 だが、鰐はひるむことなく反撃に転じた。そのアギトの矛先をアルクェイドに変更し、鰐とは思えないほどの素早い動きで床を這う。 俺はゴリラに向き直り、改めてその体に走る線を凝視した。 右腕と、首に、一本ずつ。心臓付近に刺した傷から、先程までは無かった線が新たに生まれていた。 ゴリラの動きは多少鈍くなっていたが、それでも拳を繰り出してくる。 だけど俺の動きの方が早い。 突き出された右腕の線をナイフでなぞると、懐に潜り傷からの線を放射状に切り裂く。 そして、とどめとばかりに首を切り飛ばす。 ゴリラは、音も無く崩れ落ちた。 丁度、アルクェイドも鰐を両断したところだった。 どれほど時間がたっただろうか。 部屋の中で、数え切れないほどのバケモノを殺した。 部屋の中だったため、バケモノどもが一斉に襲ってこれないのが幸いして、今まで何度か危うい場面もあったが、何とか持ちこたえていた。 バケモノどもは、その生命活動が終わると、液状化してただのドス黒い液体と化していた。 次の相手は、蛇。 いや、身の丈十数メートルはあろうかという大蛇だった。 大蛇は、部屋に入るなりベットの下に潜り込む。 ネロはまだ現れていないが、取り敢えずこいつが最後の敵のようだ。 素早く決着をつければ、ネロから逃げるチャンスも出来るかもしれない。 しかしベットに潜り込んだ敵に、迂闊に手は出せない。 (何とかして、ベットから追い出さなければ。) 俺はベットを凝視する。 表面だけでなく、下の、支柱やスプリングまで、見えないはずの物まで凝視した。 (あった!) 布団や枕というレベルではなく、ベット全体に走る線が見える。 ベットの真ん中くらいから、横に真一文字に両断する線が。 それが、布団や枕単体ではない、ベットとしての「死」だと、俺は直感した。 俺はベットに走り寄り、ベットを飛び越えた。 飛び越えざま、横に走る線を切り裂く。 着地して素早くベットから遠ざかる。 暫くは、何もおきなかった。 と、 ズッ 不意に、ベットが軋みを上げる。 ズズズッ—————ズンッ そして、ベットが、布団ごときれいに両断された。 下にいた大蛇は、ひとたまりも無い。慌てて這い出ようとするが、支柱に挟まれ動くことすらままならない。 俺は、ゆっくりと、蛇に近寄る。 必死であとじさる蛇は、まるでバケモノを見るかのように目に恐怖の色を浮かべる。 バケモノの、くせに。 俺は、大蛇の顔面に走る線を両断した。 終わった しかし。 ごき、ぼりっ、がりっ、がりっ 何かを噛み砕く音がした。 そう、それはまるで、人間を丸かじりしてるかのような、音。 「ふム、なかナかに、美味なるかナ。」 そこに、ネロがいた。 俺は愕然とする。 戦ってはいたが、須く周囲に気を配ってはいた。 入り口からの侵入者があれば、何があっても気がつくはずだ。そしてネロの侵入を許した覚えは無い。 ぼりっ、ぼりっ、ゴリッ ネロの体から、不自然に手が生えていた。 白い服を着た、白い手だった。 それが、租借の音に合わせ、びくんびくんと波打つ。 「馬鹿な!どうやってこの部屋に侵入したんだ!」 「我は夜ノ混沌の集合体。我はネロといウ存在であると同時に、今マでお前が切り裂いてきたケモノどもの集合体でモアる。」 ごきっ、ぼり、ぴちゃぴちゃ 手から先が、ポトリ、と床に落ちた。 それは、アルクェイドの、手だった。 ——————————————————————— 「うううぅぅぁぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁああ!!!」 俺は叫び声をあげていた。 ズッ はぁー、はぁー、はぁー 俺は飛び起きた。 全身がびっしょりと汗に濡れていた。 ズズッ ここは、俺の部屋。 そうだ、俺は、夢を見ていたんだ。 俺が、かつて殺した筈のネロが、夢ではコロされずに生きていて、アルクェイドを吸収してしまう… 夢であったことへの安堵とともに、言いようの無い不安が胸に押し寄せた。 悪夢であるとしても、内容が悪すぎる。 何故、俺はあんな夢を見てしまったのだろうか。 潜在意識が人に夢を見せる。 …だが、そもそもあれは俺の潜在意識に有るモノだったのか。 ばたばたばた 足音が近づいてきた。 ばん ドアが勢い良く開けられる。 「兄さん!どうしたのですか!」 声をききつけ、一番に駆けつけてきたのは、秋葉だった。 続いて、ぱたぱたと足音がして、翡翠、最後に琥珀が部屋に入ってきた。 そのとき ピシッ 最後の何かが終わる音がした。 ズズ、 ズズズズッ ベットが、これまでで最大級の軋みをあげる。 そして 最初から そこが 切れていたかのように、 ベットが、 真ん中から、 二つに、 割れた———— ズズッ…ン ベットは、いい素材で出来ていたらしく、重厚な音を響かせる。 さすが遠野家———等と場違いな思考が一瞬頭をよぎった。 「えっ。」 情けないことに、俺の第一声が、それだった。 秋葉達三人は、声も無い。 俺は思考を失い、ベットが割れた勢いで投げ出されるままになっていた。 ベットが真っ二つに裂けた。 支えの材木だけでなく、シーツから、布団まで、きれいに裂けた。 何も、して、いないのに。いない筈なのに。 … いや、した。 俺は、ネロとの戦いで、部屋に侵入したバケモノを切り刻む過程で、ベットごと真っ二つに切断した。 だけどアレは夢の中の戦いのはずだ。 現にここは俺の部屋だし、俺は、ホテルなんかに行っていない。 だけど、このきれいな切断面からも、俺が切ったとしか考えられない。 そうだ!ナイフ! 夢の世界の俺は、あのナイフでベットを切断した。 何もしていなければ、ナイフは引き出しにしまわれているはずだ。 俺は引出しをあけた。 ナイフはそこにあった。最後に置いた時そのままの状態で、刃をしまわれて。 だけど だけど、この状況は、どう説明するのだろうか——— 【三日目(月曜日)】 昨日の夜、いや、今日の朝方に、ベッドが壊れた。 何故ベットが壊れたのか、全く原因がわからない。 夢を見たくらいでベッドが壊れるものなのか。 たかが夢を見たくらいで。 結局、ベッドの寿命だったのでは、という、俺的にはかなり苦しい結論になった。 ……… 部屋が見慣れない。 そうだ、ここは親父の部屋だった。 慣れないのも当然だ。ここは親父が生前使っていた部屋なのだから。 俺は、親父の部屋を一時的に借りることになったんだっけ。 今日は終業式。明日から夏休みだ。 俺はアルバイト情報誌をぱらぱらとめくり、割のいいバイトを探していた。 赤ん坊を引き取ろうと言った手前、俺が世話をしなくちゃならないだろう。 こればっかりは遠野の家にも、ましてや有馬の家にも頼るわけには行かない。 「いよぉ遠野。なにやってんだお前、アルバイト情報誌何ぞ見て。どっか旅行にでも行くのか。」 「ああ、まぁ、そんなもんだ。」 あまり人に言えるような話でもないだろう。赤ん坊のことは。 「へー、遠野くん、旅行に行くのですか。」 「あれ、先輩、いつからそこに。」 「乾くんと同じくらいですよ。それよりも遠野くん、どこかにいかれるのですか。」 「…いや、まあ、先輩知ってるだろ。例のアレだよ。いろいろと物入りになるだろうからさ。バイトしようと思って。これバイト情報誌。」 「あ、ああ、例のアレですか。そうですねー、遠野くんも大変ですねー。」 ちなみにシエル先輩には話してある。 …ていうか、どこにいても俺のやることなすこと全部筒抜けになるんだから、隠したってしょうがない。 「何だよおまえら二人して。なに内緒話してんだ。」 「あはは」 「えへへ」 ——————————————— 志貴さまと秋葉さまは学校に。今日はお二人とも終業式なので、午後には帰ってこられるでしょう。 姉さんは今日は近所の寄り合いがあるとかで出かけました。 だからわたしが赤ん坊の世話をしなければなりません。 ———と、 アインシュタイン(翡翠仮名)は翡翠の足元にじゃれ付いてきた。 翡翠は赤ん坊を抱き上げると、琥珀の部屋に向かう。 「アインシュタイン、わたしはこれから屋敷の掃除をします。貴方は部屋にいらっしゃっていてください。」 ——————————————— 「夢?」 「ああ、ちょっと変な夢を見てさ。先輩だったらいろいろ不思議な現象を知っているから、何かわかるかもと思って。」 あのあと有彦は他のクラスの奴に用事があるとかで教室を出て行ったので、俺は先輩と二人で話していた。 「うーん、そうですねー。取り敢えず、どんな夢を見たのか教えていただけますか。」 「…一回目は、土曜日の夜だったかな。」 俺は、夢のぼんやりしたイメージを思い出しながら、とりとめも無く夢の内容を語り始めた。 「草原に、周囲は山脈。時間は夕方で、夕日が山脈に差し掛かろうとしている。」 「ふんふん」 「見たことも無いような古い城があって、小さな湖がその後ろにあるんだ。そして、湖には腰まで水に漬かった俺と同じくらいの年齢の女の子が、悲しそうに水面を見つめていて…」 女の子、という言葉にシエルはピクッと眉をひそめたが、志貴はそれに気づかずに話を進める。 「顔は思い出せないんだけど、その子は何か探し物があったようで——、でー、えーと、俺を見て言うんだ。『やっと見つけた』って。」 まさか俺に抱きついてきたとは言えないだろう。 「そして彼女は最後に言うんだ。—————ロア——って」 「———っ!」 先輩の気配が一瞬変わる。当然かもしれない。 「…一回目の夢はそんな感じかな。」 「まだ続きがあるのですか。」 「ああ、二回目は昨日。場所はホテルだ。」 「ホテル?」 「例の103人が行方不明になったとこ。」 「……………」 シエル先輩の表情が、だんだん険しくなってくる。 「…俺は、ネロが出した獣達を次々に切り捨てていくんだ。」 「何匹殺したか判らない。だけど、殺しても殺しても次々に新手が来て、俺はだんだん追い詰められていって…」 「最期は、ネロの混沌へと吸収された、ですか。」 結末を、先輩が言い当てた。 「!どうして判るんだ、先輩。」 「判りますよー。悪夢のオチって大体そんなもんですから。遠野くんも心配しすぎです。たかが夢、ロアもネロももう存在しません。気に病む必要はありませんよ。」 先輩の表情はもういつもの状態に戻っていた。 「だけど先輩…」 俺の言葉をさえぎって先輩は続ける。 「夢心理学の権威であるフロイトが言ってました。  『夢は過去について教える。   あらゆる意味において過去に由来するがゆえに。   なるほど、夢は人に未来を示すと言う古い信仰もまた、   一面の真理は含まれていよう。   願望を満たされたものとして我々に示すことによって夢は、   ある意味では我々を未来の中へと導いてゆくのだ。   ———過去の模造として作り上げられた未来へと。』 ようするに、夢は過去の出来事を反芻するだけのものであって、 『夢が未来を指し示している』なんてその人の中の偶像に過ぎない、と言っているわけです。」 そうなのだろうか。なんか思いっきり曲解しているような節もあるけど… それ以前に、フロイトなんてどこで知ったんだろう。先輩はやはり謎が多い人だ。 「だから遠野くん、夢なんて物は気にしてはいけません。気にしはじめたらいつまでたっても終わらないじゃないですか。」 そうか、そうだよな。先輩が言うのなら、あんな夢は気にしない方がいいのかもしれない。 でも、俺の表情が冴えなかったようだ。先輩は話をつづけた。 「んー、そうですねー、遠野くん冴えないようですから、夢魔の話でもしましょうか。」 「ムマって、人に悪夢を見せたりする、アレ?」 「そうです。ちょっと悲しい夢魔の話です。」 ——————————————— 「これは————」 一通り屋敷の掃除を終えた翡翠が琥珀の部屋に戻ってみると、部屋はさんさんたるありさまだった。 ベットメイクはめちゃめちゃに乱され、置物の年代者の花瓶が床にたたきつけられ、粉々に砕け散っている。 赤ん坊は床の上で毛布に包まり、うとうとしている。 その肘と膝は、なぜか汚れていた。 赤ん坊は、翡翠が部屋に入ると、人の気配を感じたのか目を覚ました。 「…何者かが、この部屋を荒らしたようです。」 「あぶ。」 ・犯人は不明。目的も不明。 ・部屋は荒らされており、その場に居合わせているアインシュタインと翡翠。 ・現場には二人しか居ない。 ・毛布に包まるようにして現場で眠っていたアインシュタイン。 ・その膝と肘は埃にまみれている。 ここは洗脳探偵翡翠の登場である。 「アインシュタイン、何か心当たりはありませんか。」 「ばぶ」 それに対し赤ん坊の返事はそっけない。 「本当に無いのですか。」 「だあ」 「ほんとのほんっとーに、心当たりは無いのですね。」 「だあ」 赤ん坊はそ知らぬ顔だ。 「アインシュタイン、あなたの袖と膝が汚れています。それはいつ汚れたのですか。」 びくっ 「びばぶ」 赤ん坊が反応する。たけど返事は否定だった。 「アインシュタイン、貴方の着ている服、花瓶に入っていた水で濡れているのではないのですか。」 びくびくっ 「ひばぶ」 「…あくまでもシラをきり通すつもりのようですね。」 翡翠は 赤ん坊をベットの上にのせ、翡翠はその正面にしゃがみ、目の高さをあわせる。 赤ん坊が態勢を崩してベットから落ちないように、小っちゃな手はつかんでやる。 「どうです。今のうちに自白するなら、罰はまだ軽いですよ。」 「だあ?」 会話になってるんだかなっていないんだか。 話しながらも手持ちぶたさだったので、赤ん坊の手をぺちぺち拍手させる。 「きゃう。きゃっきゃっ。」 赤ん坊はなにやら嬉しそうだ。 「どうです、自白する気になりませんか。」 「だあだあ」 「…しょうがありません。これだけは使いたくなかったのですが。」 翡翠は右手の人差し指をアインシュタインの眼前まで持ってくると、トンボを捕まえる要領でぐるぐる回転させ始めた。 ぐーるぐる、ぐるぐる そして一言。 「貴方を…もとい、貴方は、犯人です。」 「きゃっきゃっ」 相変わらず赤ん坊はたのしそうだ。 ぐーるぐる、ぐるぐる 「ほーらほら、自白する気になりましたか。あなたは犯人ですよー。まだ罪が軽いうちに自白したほうが身のためですよー。」 ぐるぐるぐる 「きゃっきゃっ、ぷう。」 赤ん坊はやっぱりたのしそうだ。 ぐるぐるを1分近くも続けたころだろうか。 「…驚きました。わたしのこの技にここまで耐えたのは貴方が初めてです。」 「あー、あー、うー、いいー」 相変わらず赤ん坊は翡翠がなに言ってんだか理解してなさげだ。ただ、多少目が回ったようだ。頭が左右にフラフラしている。 ふらふらしながらも埃まみれの手でぱちぱち拍手している。そういえば赤ん坊は埃だらけのままでした。 赤ん坊は綺麗にしないといけませんね。 「しようがありません。アインシュタイン、貴方を風呂に連行します。入浴の刑です。いっしょに入りましょうか。」 「きゃぃきゃぃ」 翡翠と赤ん坊の一方通行な会話は続く。 ……… 「ぶうばぶ」 「これで貴方も綺麗になりました。…貴方のも中々に男前でしたよ。」 翡翠はきっと風呂場で赤ん坊の体のどこかを見たのだろう。 翡翠は、さっぱりした赤ん坊を見つめる。 「拾ってこられたとはいえ、どこか志貴さまに似ているような気がします。」 ——————————————— 学校、シエルの話。 夢魔は、人に夢を見せるもの。 夢魔は、人の目に見えず、人がその存在を感じることもない。 夢魔は、夢の中でしか肉体を持てない。 夢魔は、悪夢によってしか、力を得られない。 夢魔が、恋をした。 存在意義も無く、人に知られることも無く、名前すらない。 そんな、ただ漂っているだけの存在だった夢魔が、恋をした。 その娘は、稀に見る魂の輝きだった。 夢魔は、まるで自分がその輝きに癒されるように感じた。 だから、夢魔はその娘に恋をした。 夢魔は、なんとかして娘にその想いを伝えようとした。 しかし、娘に言葉は伝わらない。 夢魔の存在すらも、伝わらない。 夢魔は、夢の中で娘に語りかけた。 夢は一時の夢。泡沫の夢。 朝の霞にもやと消えるもの。 夢魔が語りかけた言葉は、伝わることなく、覚えられていることも無かった。 やがて娘は恋をした。 意中の相手は、その娘の幼馴染であった。 燃えるような一時の恋ではなく、互いに相手を思いやる、静かな、だけど深い、恋だった。 今まで意識していなかった存在だったけど、ある日あるとき、それが意識され、娘はその幼馴染に恋をした。 夢魔の想いは、ついに伝わらなかった。 夢魔は、悪夢によって力を得る。 負の力によって力を得る。 それが夢魔の魔たる存在の証。 力を得るほどにその存在を増し、人が感じることもできるようになる。 悪夢を見せて、自己の存在をより強く娘に意識させることも出来たが、夢魔には出来なかった。 だから夢魔は、薄いままだった。 夢魔は、再び、漂うだけの存在に戻ってしまった————。 「…なんか、悲しい話だな。人に恋をして、結局報われなかった夢魔、か。」 俺は、素直な感想を口にした。 「はい。でも、その夢魔には後日談があるんです。」 「後日談?」 「これはわたし達教会の内部機密ですからあまり多くは話せないのですが、その後夢魔はある魔物の傍を漂っていたと言います。その魔物がロアだという噂があったのですが、真偽の程ははっきりしません。」 夢魔は、負の力によって力を得るという。 なら、その魔物から漏れ出る力に惹かれて、夢魔は周囲を漂っていたのか。 「魔物の周囲を漂って幾年月か、再び夢魔は、輝ける魂を持つものに出会ったとか出会わなかったとか。」 「輝ける魂…」 「教会の記録は断片的であまり多くの記録が残っていなかったのですが、その輝ける魂を持つ者も、魔物であったようです。」 「それじゃ、人と違って、想いが伝わらないなんて事も無いんじゃないのか。」 「そうです。夢魔は、その魔物と共に生きることで、それなりに幸せだったようですよ。あ、共に生きる、とはこの場合結婚したとか、そういう意味じゃありませんよ。」 「魔物の使い魔、かぁ〜。——っ!、もしかしてそれって、アルクェイドのことか?」 あいつの使い魔とやらには、以前に酷い目に逢わされた事がある。 アルクェイドの名前が出たからか、先輩はちょっと不機嫌になる。 「違いますよ。あの人とは全然関係ありません。大体それじゃ辻褄が合わないじゃないですか。ロアが魔の存在になったのは、アルクェイドに血を吸われたからです。時期が合いません。それにロアが魔の存在になってから出会ったのがアルクェイドだったら、会ったその場で殺されています。」 そりゃそうだ。 ——————————————— …志貴さま。 今日は終業式ですから、午後になったくらいにはお帰りになられるでしょう。 ぺしぺし 翡翠は再び赤ん坊の手をたたいて遊びはじめる。 思えば志貴さまも罪作りな方です。 誰彼構わず女性に気を持たせるような事ばかりして。 無意識に行っているのでしょうが、それが一番罪深い行為です。 普通のゲームでそんなことしたら、まず誰とも結ばれずバットエンディング直行なんです。 月姫というゲームだって、最初シエルルートを進もうとして途中からアルクェイドルートに乗り換えたら、結局全ての選択肢がバットエンディング直行というマルチバットエンディングなんですから。 わかっているのですか、志貴さま。 志貴さまが、わたしを選んでいただけたなら。 もしわたしが、志貴さまの恋人だったら————— 翡翠暴走…いや妄想モード突入。 「———愛している、翡翠。」 ズン 耳元でその一言が、脊髄を駆け抜け、ビテイ骨にまで達した。 わたしは志貴さまに抱きしめられ、身動きも逃げることもできない。 その一言で、頭の中まで真っ白になってしまう。 ビテイ骨に達した声がわんわん反響して、膝ががくがく震え、立っていられない。 密着した状態で、わたしの心臓の音が聞こえてしまわないかと心配になる。 志貴さまのぬくもりが、抱きしめる体を通して伝わってくる。 これが、志貴さまのぬくもり。 どくん、どくん、どくん ああ、志貴さま心臓の音が聞こえる——— そして 志貴さまはわたしを抱きしめたまま、ベットへ———— かぁぁ ベットその後のごにょごにょな展開を想像して、真っ赤になってしまう翡翠。 「だ、だ、だめです、志貴さま。わ、わたしはまだ心の準備が———」 つんつん 言いながら照れ隠しに赤ん坊の頬をつつく。 「きゃいきゃい」 嬉しそうな赤ん坊。 「…志貴さまも罪作りな方です。」 わかって、いらっしゃるのですか、志貴さま。 つんつんつんつんつんつんつんつんつんつん 「きゃいきゃい」 どうにもこうにも幸せなアインシュタインだった。 「ぐー、ぐー。」 「ん、どうしました。」 「ぐー、ぐー。」 「お腹が減りましたか。」 「びばぶ」 「違うのですか。じゃあおしめですか。」 「びばぶ」 翡翠はしばらくの間、何事か悩んでいた。 「わかりました。ぐるぐるですね。」 「だあ」 どうやらぐるぐるが気に入ったようだ。 ぐーるぐる、ぐるぐる 赤ん坊の前でまわす指を、アインシュタインは顔全体を使って追う。 「ほーらほら、ぐるぐるですよー」 「きゃいきゃい」 ほんとに赤ん坊は幸せそうだ。 「みう、みうー」 「アインシュタイン、今度は何ですか。」 「み、うー」 「…ミルクですか?」 「だあ」 「わかりました。ではミルクをお持ちしましょう」 赤ん坊は本当に人見知りしない、いい子だ。 一心不乱にミルクを飲んでいる。 飲み終わった後、背中をさすってやる。 「けぷ」 げっぷだ。 そろそろいい頃合かもしれない。 「アインシュタイン、そろそろ昼寝をしましょうか。」 「やあふ」 赤ん坊も、お腹が満たされたから、満足そうに目をうつらうつらさせていた。 あれ、あれれれ。 なんかわたしも瞼が重いです。 時計を見る。 11時20分。志貴さまが帰られるまで、まだ時間がありますね。 ———と思った時点で、既に翡翠は赤ん坊と眠っていた。 ——————————————— 先輩との話も終わり、あとは通知表をもらって掃除して帰るだけだ。 あふ あくびが出る。 先生の話は長いから、ここで一眠りしよう。 俺は浅い眠りについた。 俺は、夢を見た。 白昼夢。 奇妙な現実感のある夢。 俺はこどもの、しき、に戻っていた。 夏の、暑い日。 青い空と、大きな入道雲。 じりじりとゆらぐ風景と、 気が遠くなるような蝉の声。 みーん みんみん みーん みんみん みーん みんみん 広場には蝉のぬけがら。 太陽はすぐそばにあるようで、 広場はじりじりと焦げていく。 血にまみれた、殺された、少年。 胸からは、どくどくと、あかい血が、流れてた。 両手が、血にまみれた、少年。 指先から、ぽたぽたと、あかい血が、垂れていた。 「シキ———————!」 大人たちは叫んでる。 お前がコロシタのかとさけんでる。 胸から血を流している少年。 手から血を垂らしている少年。 くすくす くす くすくす くす あきはが笑っている。 なにを笑ってるんだあきは。 だってにいさん——— あきはが、こどものあきはから、おとなのあきはにかわった。 ———兄さんは既に、死んでいるのですよ。 え ———兄さんの胸の傷は、もう助かりません。——— ぼくが、じぶんの、むねをみると。 むねにぽっかり、あながあいていた。 そこを ぼくのうでが、ずぶりとつらぬいていた。 そうか ぼくは、 はんてんしたぼくじしんに、ころされたんだ。 だけどぼくは、しななくて。 シキのいのちで、いきのびたんだ。 でも、秋葉が言うんだ。 ———ねえお父様。   兄さん、反転しちゃったから、殺さなくちゃならないですね。——— ———ああ、もともと身代わりのために置いておいた子供だ。——— ああ、反転した者は、一族のとうしゅが、せきにんを持ってころさなくちゃいけないんだ。 ぼくは、しぬ。 ぼくは、ころされる。 ぼくは、ぼくに、ころされる。 いやだ いやだいやだいやだ いやだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ! 「———おい、遠野、遠野!」 誰かが俺の肩を揺らす。 「えっ、あっ、あれ、俺—寝てた?」 「ああ、全くだ。ほれ、通知表お前の番だぞ。とっとともらって来い。」 あれ 俺はいつの間に眠ったんだったっけか。 確か何事か夢を見たような——— 「——遠野!」 先生が呼んでる。 あ、やべ、行かなきゃ。 それきり、俺は今しがた見た夢のことを忘れてしまった。 … 学校から帰ってきた志貴が見たものは。 琥珀の部屋で幸せそうに眠っている、赤ん坊と、翡翠だった。 「…翡翠の寝顔、はじめて見た——。」 ——————————————— 遠野邸、午後。 寄合から帰ってきた後の姉さんの様子がどうもおかしいです。 周囲をせわしなく見渡したり、一度掃除した場所をもう一度掃除したりしています。 たまに呼びかけても上の空です。 翡翠が一階廊下側の窓を拭いていると、琥珀が、裏口から奥の繁みの中へ歩いていくのが見えた。 手には何か大事そうに荷物を抱えている。 「……………?」 琥珀は左右をキョロキョロと見渡していて見るからに挙動不審だ。 翡翠は琥珀の後を追ってみることにした。 「このあたりだと…思いましたが。」 音をあまり立てないように注意して歩きながら、翡翠は森の奥まで分け入っていた。 しかし琥珀の姿はようとして見えない。 この先には志貴さまが昔住んでいた家しかない。 翡翠は家の中に入ってみた。 「…うふふふー、近所の寄合いだと嘘をついて朝から並ぶこと4時間、ようやく手に入れられました。」 衾を隔てた向こうでは、琥珀がなにやらガサゴソやっている音がする。 「普通に買いに言ってもまず売り切れ。今まで一度しか食べたことがないにも関わらずその味が忘れられません。」 続いて包みを開ける音。 その途端、衾を隔てた翡翠の元へも、強烈に美味しそうな匂いが漂った。 「こ……これはっ!」 翡翠は衾をぴしゃりと開ける。 「姉さん、その手に持ってるのは———」 手に持ってる、正確には手に持って口にくわえているものは、きのこの図柄がプリントがされた饅頭だった。 いきなり入ってきた翡翠に、んがっ、てな表情を向ける。 「———月光堂の『きのこ饅頭』。」 <きのこ饅頭> 遠野家からは駅で3つ行ったところに、月光堂という駄菓子屋がある。 きのこ饅頭はそこの名産品だ。 TYPE国原産のネコムスメマタタビを香料として染み込ませた餡を使っている。 その香気につられるように女性客が殺到し、今では開店後数十分で売り切れることで有名になっている。 ちなみに、ここでは全然関係しないが主だった女性キャラのうちでシエルと晶だけはこの饅頭に全く無関心だったりする。 一説では、物語の作者が両者はイヌ系だという確固たる信念があり、これだけは譲れないとヌかしてるから、と言われているが、真偽の程は確かではない。。。 「あやー、見つかっちゃいましたか。しょうがありません、翡翠ちゃん、二人で山分けですね。」 饅頭の数は全部で4つ。 翡翠と琥珀で二つずつ食べれば丁度いい計算になる。 ぱくっ もぐもぐ ぱくっ もぐもぐ 「おいしいです…」 「そうですねー」 二人は恍惚とした表情で饅頭を食べる。 秋葉は翡翠を探していた。 挙動不審な琥珀を追う挙動不審な翡翠を、二階の廊下の窓から見かけたからだ。 ———あの先には兄さんが暮らしていた家があるから、よほどの用がない限りは近づかないように言ってあっるのに…——— かくして、秋葉もまた、挙動不審者となりて翡翠の後を追うのだった。 ぱくっ もぐもぐ ぱくっ もぐもぐ 琥珀たちが一つ目の饅頭を半分ほど平らげたとき。 「何してるの、二人とも。」 秋葉が衾を開けて登場した。 <どうでもいい話> 琥珀、翡翠姉妹…茶色系トラ猫シスターズ 秋葉…シャム猫 アルク…白いイメージだけど黒猫。目が金色。 …の、きょーれつなイメージが作者にはあったりする。 で、 「おいしいっ!」 秋葉感動。 此処に秋葉もまた、きのこ饅頭の魅力に取り付かれるのだった。 ぱくっ もぐもぐ ぱくっ もぐもぐ ぱくっ もぐもぐ 女の子が三人揃って無言でもぐもぐやっている。 やがて、みんな一つ目の饅頭を食べ終えた。 残ったのは、饅頭がひとつ。 「……………」 「……………」 「……………」 三人とも無言。 「それじゃわたしが苦労して買ってきたものですし。」 「私はこの屋敷の主ですから。」 「姉さんや秋葉さまを太らせるくらいだったら、わたしが。」 三人の手が一つの饅頭に重なる。 「……………」 「……………」 「……………」 俺は、秋葉、翡翠、琥珀を求めて屋敷の中を彷徨っていた。 赤ん坊が居間で泣いていたのだ。 一人ぼっちで。 注意しようと思って三人を探したのだが、全然見当たらない。 こうなったら屋敷の中をくまなく捜してみようか。 まずは庭に行ってみるか。 俺は、赤ん坊を抱きかかえながら、庭に出た。 再び、庭の外れの家の中。 「わ、私は遠野家の当主で二人の雇い主なんだから、当然の権利です。むしろこうして半端な分を食べてさしあげるのですから、感謝されてもいいくらいです。」 「あ、あらあら、秋葉さま、これ以上お食べになられても、わたし達と違って普段運動されてないですし、その栄養は胸ではなく体重に反映されてしまいますよ。」 「あ、あら、琥珀が食べても、その栄養は悪巧みを考える脳にしか行かないんじゃない?」 「危険思想でしたら、秋葉ルートの秋葉さまも充分イっちゃってて危険です。だからここは、どのルートでも儚く男心をくすぐるわたしが。」 のっけから手厳しい言葉の応酬。 部屋の気温が3度は下がったに違いない。 「……………」 「……………」 「……………」 再び無言。 しかし、それぞれの頭にはペケ字マークが浮かんでいる点が先程と違う。 饅頭を中心にしてにらみ合う三人。 翡翠は、何処からか取り出した箒を縦に構えている。 琥珀は、これまたどこからか取り出した包丁を両手に一本ずつ持っている。何故か口には白いハンカチをくわえている。 秋葉は、その髪がうっすらと赤味がさし、風もないのにゆらゆら揺れている。 「琥珀、翡翠、あなたたち、私に勝てると思ってるの?」 「あら秋葉さま、秋葉さまの檻髪はわたしからの力の供給があって初めて高い威力が出るものではありませんでしたっけ。私が力を分け与えなければ秋葉さまも役立たずになってしまうんじゃないですか?翡翠ちゃん、ここは子供の出る幕ではありませんよ。おとなしくひっこんでなさい。」 「わたしにも譲れないものがあります。キチボケとツルペタさんは、磨きをかけたわたしの技をくらってから言って下さい。」 「……………」 「……………」 「……………」 「何よ上等、やるってのね?」 「返り討ちですよー。」 「目にものみせてさしあげます。」 ずごごごごごごごごご 饅頭を中心に、周囲の空気が渦を巻く。 まさに一触即発。 互いに睨みをきかせる三匹の子猫たち。 と、そこへ。 「おーい、みんなここにいるのか?」 赤ん坊とともに志貴登場。 「お前達、こんなとこで何やってんだよ。赤ん坊ほったらかしにして。赤ん坊がずっと泣いてたぞ。」 俺は三人を怒った。 … 三人ともしゅーん。 「ど、どうでしょう秋葉さま翡翠ちゃん、ここは一時休戦ということで。」 「賛成です。」 「しょうがないわね。」 饅頭は一旦包装をもどされ、遠野家の冷蔵庫に安置されることになった。 冷蔵庫の中にそっと置かれるきのこ饅頭。 以来それぞれ牽制しあい、互いに後一歩が踏み出せないでいる秋葉と琥珀と翡翠。 それは夕食を食べた後も続いていた。 だが、結末は以外に早く訪れた。 「あ〜、夕メシは食べたけど、まだなんか物足りないんだよな。」 今日の夕食は蕎麦だった。 連日暑かったので、俺にとってはありがたい限りだ。 だけど、蕎麦はあまり腹にたまらないので、寝る直前になってちょっと腹がすいてきた。 俺は何か食べるものを物色しに冷蔵庫の前まで来た。 「……………」 冷蔵庫には南京錠がかけられていた。 「こんなことするのって琥珀さんかなぁ…。」 だが、南京錠ごとき恐るるに足りない。 俺は辺りを見回しバターナイフを見つけると、メガネをずらし南京錠を見る。 丁度いい線は、と、あった。 金属の支柱部分に、縦に線が走っている。 この線を切るだけで南京錠は開くだろう。 俺は、バターナイフでその線を切った。 冷蔵庫を物色する。 たまご、牛乳、そーせーじ、っと。うーんもっと簡単に食べれるものないかなー。 おっ 何か包装してあるものがあるな。何だろこれ。 俺は丁寧に包装してあるそれを取り出した。 あった。 饅頭だ。丁度いい、これを食べよう。 ぱくっ もぐもぐ ふーん、なかなかうまいじゃん。 俺は何も知らずにその饅頭を食った。 と 俺が饅頭を食いきった頃、 「兄さん」 「志貴さま」 「志貴さん」 秋葉と翡翠と琥珀に、後ろから声をかけられた。 振り向いた俺が見たものは——— ずごごごごごごごごご 三人の後ろに、暗黒が犇(ひしめ)いていた。 いやまあ、夜だったし電灯がついてなかったから暗いのは当たり前だけど。 なんか人外のモノの雰囲気があったというか、こりゃ俺もう死んだなっていう予感があったってーか。 俺を見る三人の目は冷たい———を通り越して恐い。 「兄さん、冷蔵庫の中の饅頭、食べたのですか。」 「む、いや、まあ、食べたと言うか、夜食に…」 「食べたのですね。」 「いやだからちょっと腹が減って…」 「食べちゃいましたねー」 「……………ハイ。」 じりじりと迫る三人。 背後は冷蔵庫。三方を囲まれ、俺は逃げ場がないことを悟った。 理由はわからないが、きっと俺はどこかで選択肢を間違ったのだろう。 気分はもう、流れ的にデッドエンドがわかりきってるけどフラグ立てるために最後まで見なきゃなー、てな感じである。 そうか そうかきっとこれは夢に違いない目を覚ませばおれは自室のベッドにいて翡翠がおはようございますって声をかけて……… 「兄さん、覚悟!」 「問答無用です!」 「死んだら屍は拾ってあげます!」 ぎゃぁぁぁぁぁ〜 最近こんなんばっかし…。 俺は『これから』夢の世界へと旅立つのであった。 ——————————————————————————————— 夢。 奇妙な現実感がある夢。 夢だとわかっていても、見つづけてしまう夢。 闇が蠢く。 まるで、これから悪夢を見るだろう俺を笑っているかのように——— が 理由もわからずこの世界に飛ばされて不貞腐れてる俺に悪夢は通用しない。 とにかく俺はこのむしゃくしゃした気持ちをどこかにぶつけたかった。 どうせこの先俺は悪夢で襲われるんだ。 部分的に何故か現実戻ったら忘れてる記憶があるけど、そもそもが俺には襲われる理由そのものがさっぱりわからん。 ここはぜひとも悪夢に出てきてもらって理由を説明してもらおう。 「カァァァーーーット!」 必殺の台詞である。この台詞は、全てにおいて強力な影響力があるのだ。 ぴた。 闇が止まった。 夢の世界が止まった。 なんだ。 止まったぞ。 何事もやってみるもんだな。 やがて、闇から声が聞こえてきた。 ———何ダ——— 「お前が、悪夢か?」 ———違ウ。ボクは悪夢なンテいう名前ジゃなイ——— 「ンなこたどうだっていい。とにかく俺は納得できないんだ。何で俺を襲うんだ。理由を説明しろ、理由を。」 ———理由?理由ヲ説明しタラ悪夢を見せテいいノか——— 「あいやそーゆーつもりじゃなかったんだけど…」 ———ワカった。今夢を繋げルカら——— 悪夢(仮称)は俺の話を聞かずに勝手に話を進める。 ぱっ 暫くたつとあっさり夢の風景が変わった。 城に草原に山に月。 ここは例の場所だ。 俺と、カインとか言う少女が、出会った場所。 城の後ろに湖があって…ほらいた。 全裸の少女が腰まで水に浸かり、悲しそうに水面を見ている。 ———気付かれナイようニ、水面ヲ見て——— 悪夢(仮)の言葉に従い、俺は今度こそ音を立てないように少女に近付いた。 近づくと、水面に、映像が見えた。 鮮やかな毛並みの、狼の映像が。 そう思った瞬間、俺は、その映像の中に吸い込まれた。 ここは———? ここは、狼の群れ。 俺は、その群れを率いているリーダーだった。 その集団は、五匹のオスと七匹の雌から成り立っていた。 広大な森と草原を住処としていて、狩りをし、子供を産み育て、放浪する集団だった。 青銀の毛並みを持つ俺には、白銀の毛並みと、銀の瞳をもつ妻がいた。 妻は仔を身篭っていた。 俺の仔だ。 やがて冬が終わり、春になって、妻は三匹の仔を産んだ。 産んでから一月ほどの間は、妻はひたすら巣穴にこもり続け、仔供達に乳を与えていた。 一月が経って、妻は俺に仔供を見せてくれた。 メスが二匹に、オスが一匹。 俺は有頂天だった。 狼の愛情は深い。 それは妻だけでなく、集団に対しても同じくらい思い入れがある。 やがて夏になる。 集団のうちで身動きの取れないメスは巣穴に残し、残ったもので狩りをし、成果を巣穴に持ち帰った。 秋が深まってくる。 この頃になると、仔供たちは大分大きくなり、かなり遠くまで遊びに出かけられるようになる。 妻達も、狩りに参加できるようになった。 冬が近付く。 もうすぐ、この地では餌が獲れなくなる。 だから、また餌のあるところまで放浪しなければならない。 そして、そこでまた巣穴をつくり、身篭ったメスはそこに篭るのだ。 冬が近付いていた、そんな時。 ぱーーーーーん 聞きなれない音が響いた。 俺達は即座に警戒する。耳を澄ます。 ぱーーーーーん ぱーーーーーん 続いてまた二回。 かなり遠い。 これならまず大丈夫だろう。 俺は集団の警戒を解かせた。 しかし 何を思ったのか、俺の妻は突然音のした方へ駆け出し始めた。 思い返せば、これが予感と言うものだったのかもしれない。 俺達が現場についたときは、もう全てが終っていた。 仔供達が、撃たれていた。 俺の仔供達が。 皮を剥ごうとした最中に俺達に気付いて逃げ出したのか、俺の息子が体半分皮を剥がれされて放置されていた。 周囲にむっとするくらいの血臭。 そして幽かに漂う、コロシタものの臭い。 この臭いのモトが、仔供達を、コロシタ。 「クゥゥンキュゥゥゥゥゥン」 妻が、鼻先で必死に仔供達を押して動かそうとする。傷口を舐めて直そうとする。 だけど、仔供達は、二度と動かなかった。 「ウォォォォォォルウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ」 俺は、吼えた。 「クウォォォォォォォォォォォォォン」 皆が、呼応して吼えた。 さあ 狼の狩りの、始まりだ。 はっはっはっはっは ははっははっははっ 荒い息遣いが月夜に響き渡る。 俺達の狩り。エモノは、ニンゲン。 風が、かすかに獲物の匂いを運んでくる。 俺にとっては、これで充分過ぎるくらいだ。 「アオォォォォォォォォォォン」 あちらこちらで、仲間が遠吠えをあげる。 ニンゲン、は、俺の仔供達をコロシタ。 だから、コロシ返す。 「オォォォォォン、オォォォォォォン」 エモノはもうすぐだ。 と ガキイィィン 音がして、何かが妻の脚をはさんだ。 妻が心配だが、俺にはリーダーとして纏めなければいけないこの集団がある。 俺は、妻が心配だったが、ひとまずはエモノを追いかけることに専念した。 「—————」 断末魔の、悲鳴。 狩りの、終了だ。 肉片をばらし、それぞれで咥えて持ち帰る。 俺は、妻のもとへと走り出した。 ニンゲンの、匂いがした。 ニンゲンの、罠だった。 ニンゲンの罠は、外せなかった。 どうやっても外せなくて、仲間が一匹、また一匹と諦めていった。 冬はもう、すぐそこまで迫っている。 俺は、群れを率いるリーダーとして決断しなければならなかった。 俺は、群れを護らなくてはならない。 妻は、痛いだろうに、気丈にも俺を見つめつづけていた。 俺達は鼻先をこすり合わせ、一声鳴いて、そして離れた。 俺は、俺の咥えて来た肉を妻の前に落とし、 仲間とともに、 去った——— ぱっ そこで、俺の意識は、狼から人間に戻った。 俺は、遠野志貴。 周囲は、闇。 もう城も月も無い。 また、あの声が聞こえる。 ———以上ガ、理由ダ——— 「は?」 ———ダから、リユうダ——— 「理由って、何の?」 ———ダカらお前がガ夢を見なけレバならナイ理由だと言うニ——— 「理由って、俺が狼の集団のボスをやっていて妻を見捨てて旅立ったってことがか?」 ———アレ、その先ハ?——— 「だから、見たのは俺と狼の集団が旅立ったとこで終わり。」 ———アレどうシて、アーっ、見せル映像、間違えてたヨ。本とはコノ後を見せナキゃいけなかったノニ——— 「……………」 どうやら俺は全く関係ないシーンを拝んでいたらしい。 … でもよりによって悪夢(仮)が見せるものを間違えると言うことがあるのだろうか。 もしかしたらビデオ屋の店員とか、そんなものなのだろうか、悪夢(仮)って。 すげー間抜けな悪夢(仮)だ。 ———ちくしょー、マヌケ言ウなー!!おぼえテロ今回ノ夢は丸ごとキミの記憶カラ消しテやる〜——— 「記憶消されたら覚えていられないんですけど。」 ———えーいウルサイうるさいウルサーイ——— ぱしっ 闇が俺を蔽い尽くす。 俺は更に深い眠りに誘われた。 夢すら見ることのない、深い眠りに。 目を覚ましたら、俺は何も覚えてなかった。 【四日目(火曜日)】 そもそもの発端は、有彦だった。 数日前に遡る。 試験の最終日、学校で有彦が話し掛けてきた。 「なあ遠野。お前遊園地のチケット要らないか。」 言って、有彦は赤色のチケットらしき物を二枚、ヒラヒラさせる。 「いきなり何を…ってどうしたんだ有彦、お前それついこの間オープンしたばっかりのレッドデビル遊園地の入場チケットじゃんか!」 その遊園地は赤を基調とした色使いをしていて、カートレースやCGを駆使したスペース戦闘物など、俺の好みのアトラクションがあったので、いつかは行って見たいと思っていたものだった。 「まあまあそうわめくなって。どうだ、欲しいか遠野。」 がしっ 俺は有彦のチケットを持った手を逃がさ…もとい友情の再確認のために握り締めた。 「行きたい。有彦、俺達は親友だよな。」 「お、おう、まあな。」 ちょっと引く有彦。 「ありがとう有彦。お前のその雄姿は絶対に忘れないぞ。」 と言ってチケットを取ろうとするが、有彦は、ひら、とチケットを持った手を遠ざける。 「でな、これには交換条件があるんだな。」 「交換条件?」 「そう。それさえやってくれればこのチケット二枚とも渡してやってもいい。…実はな…」 と、有彦は俺に何事かを耳打ちしてきた。 「え〜〜!!お前それ、本気か?」 「本気も本気。どうよ遠野。」 「………少し考えさせてくれ。」 その日の夕食。 食卓につく秋葉と俺。 それぞれの後ろに琥珀と翡翠も控えている。 俺は、夕食をつつきながら、秋葉に話を持ちかけた。 「な、なあ秋葉。」 「?何ですか兄さん。ものを口に入れながら話すのはマナーが悪いですよ。」 「あ、ああ、そうか。なあ秋葉、お前、レッドデビル遊園地…って興味ないか?」 ぴくっ 秋葉の眉が寄せられた。 なんか秋葉の機嫌が悪くなったような気がする。 「…その遊園地がどうかしたのですか。」 「い、いや、単に興味あるかなーって。」 「遊園地など俗人の行くものです。兄さんには申し訳ないですが全く興味はありません。」 にべもない。 「そうか。いやー、残念だな。せっかくチケットがあるのに。」 ぴくぴくっ 「兄さん、どういうつもりか知りませんが、今後金輪際、その遊園地の話は止めていただきます。遠野家の会話としてふさわしくありませんから。琥珀、もう食事は結構です。私は部屋に戻ります。」 と言って、秋葉は席を立って、すたすたすたと食堂を出て行ってしまった。。 止める暇も無い。 …まあいい。これで有彦との義理も果たした。 有彦の交換条件は、秋葉を誘うこと、だった。 どこでどう知り合ったのか知らないが、秋葉が俺の妹と知って、ぜひお近づきになりたいとの事らしい。 俺は秋葉の性格からして断られるかもしれないと言ったが、それでもいいと言う。 だから俺は駄目元で秋葉に話を持ちかけてみたのだが…。 まさかあれほどの拒否反応を示すとは思わなかった。 食後、琥珀が口を寄せてきた。 「志貴さん、あんな話しちゃ駄目じゃないですか。」 「あの話って、遊園地のこと?」 「そうですよー。秋葉さま、あの遊園地を毛嫌いしてますから。」 「毛嫌いって、何で?」 「…名前、です。」 後ろから翡翠が答えてくれた。 「名前?だから何でさ。」 「志貴さん、遊園地の名前、覚えてらっしゃいますか。」 「…レッドデビル遊園地。」 「レッドデビル…赤い悪魔…、志貴さん、それに何か心当たりはありませんか。」 「赤い悪魔…赤い…、!まさか!」 「そうです。あの遊園地って、実は秋葉さまをイメージしたものなんですよ。遠野の傘下の企業群が出資してまして、名前を決めるときに、遠野の当主をイメージしたものにしよう、と言うことで決まったんです。」 「…良く秋葉が納得したな。」 全くである。 「納得してないですよー。でも秋葉さまが名前を知ったときは既に様々なアトラクションや広告にその名前が使われていて、今更取り返しのつかないところまで進んでいたらしいんです。だからその後、当時の、名前を決めた責任者が何者かによって腹いせに左遷されたとかされないとか。」 「はー。」 その何者かというのが誰なのか、あえて尋ねないでおくか。恐いし。 「だから志貴さん、今後その遊園地の話は秋葉さまの前ではしてはいけませんよ。」 「ああ、わかった。気をつけるよ。」 それにしてもたかが名前一つで左遷とは、その男も人生誤ったものである。 以上が、話の始りだった。 俺は、有彦からもらったチケットで、アルクェイドを誘うことにした。 二枚あったし、アルクェイドに日常のさりげない面白さを知ってもらうのに丁度いいと思ったからだ。 アルクェイドも快諾してくれた。 そして今日が、そのアルクェイドとのデートの日。 いつも金欠だけど、こつこつ少しずつ溜めてきた分で、なんとか今日一日二人で遊園地に行く分には足りる位はある。 俺にしては珍しく、今日は早起きだった。 慣れない親父の部屋のせいもあったのかもしれない。 何故ベットが壊れたのか、未だに原因がわからない。 けど、アルクェイドには今日のことを話さないつもりでいる。 余計なことでせっかくの遊園地の気分を害させたくない。 「あら、兄さん今日は早起きなんですね。」 「ああ、まあな。俺もたまには早起きしなきゃな。」 「兄さんもようやく遠野家の一員としての自覚が出てきたのでしょうか。」 秋葉は何処となく嬉しそうに言う。 「早速だけど、俺の朝飯、あるかい。」 「ええ、琥珀がもう用意してるはずです。」 「—それで兄さん、今日は何か予定があるのですか。」 「ああ、ゆう——」 ぴくぴくっ ”遊園地”という単語に敏感に秋葉の眉が反応する。マズイ。 「——びん局に行くんだ。」 う、ちょっと苦しいか。 「…郵便局に行って何をするのですか。」 秋葉が怪訝そうな表情を向ける。そりゃそうだ。 「いや、ほら、俺の定期預金の期限がもうすぐ切れるから、そろそろ更新しないとな。」 慌てて言いつくろう。秋葉の疑いの眼は相変わらずだったが、ひとまず納得してくれたようだ。それ以上何も聞いてこない。 アルクェイドとは遊園地前に10時の待ち合わせ。早起きしたので、結構時間に余裕はある。 俺はゆっくり朝食を食べ、家を出た。 「———琥珀、翡翠———」 「「はい、ここに」」 いつのまにか秋葉の後ろに控えている翡翠と琥珀。 「兄さんは定期預金なんて無かったはず。様子がおかしいわ。後をつけます。」 「「かしこまりました。」」 ここに、遠野志貴追跡部隊が結成されることとなった。 待ち合わせ場所の、遊園地前広場。 少し早めについたが、既にアルクェイドがいた。 俺の姿を認めると、嬉しそうに走り寄ってくる。 「随分早いな、お前。何時からいたんだ。」 「えへへー、せっかく志貴が誘ってくれたんだもん。嬉しくて30分も前についちゃった。」 「30分前って…」 「志貴、今日は誘ってくれて、ありがと。」 アルクェイドが俺に腕を絡めてくる。 一瞬、恥ずかしくなったが、アルクェイドがあまりにも嬉しそうなので、そのままにしておいた。 んで、そんな幸せ一杯の二人の20メートル後ろでは。 ぷちん ここんとこ立て続けにキレたことで、キレ易くなったのかもしれない。 秋葉の中で、また何かがキレてしまった。 既に秋葉の髪は真紅に染まってたりする。 わなわなわなわな レッドデビルの登場だ。いや再来だ。 「ふ、ふふ…」 「あ、秋葉さま……?」 琥珀が恐る恐る声をかける。 「レッドデビル遊園地…そうですか、兄さん、覚悟してください。今日は一日楽しい思いをさせてあげます。」 秋葉の中では、既に兄からの遊園地の話をけったことなど吹き飛んでいる。 ざわざわざわ 髪の毛が風も無いのに揺れていた。 「ひええ〜、秋葉さまがキレちゃいました。」 琥珀は見慣れているのか、ちっとも大変そうには見えない。 「いつものことです。」 翡翠の返事も冷静だった。 ここはレッドデビル遊園地、中央管理センター。 そこに秋葉達三人はいた。いや正しくは占拠していた。 周囲には、秋葉の略奪の能力によって根こそぎ精力を奪われてしまった職員達の生けるしかばねが累々と積み重なっている。 手加減されたのか、まあ全員、命に別状は無さそうだ。 中央のモニターに映し出されているのは、志貴とアルクェイド。 遊園地内に仕掛けられた監視カメラが、二人の姿を捕らえていた。 二人は、まず遊園地の目玉の一つである、バトルカートレースを選んだようだ。 二人の後ろを、遊園地のマスコットキャラ、デビルアッキーという赤毛の人形が歩いていた。 中は完全自動ロボット。実はそのチャーミングな瞳がレンズになっていて、中に監視カメラが仕込まれている。 だが外見上は、中に人間が入ってるとしか思えないほどの滑らかで多彩な動きを可能にしている。 デビルという名前を冠するにもかかわらずその愛らしい表情で、中々に一般の人気は高いようだ。 バトルカートレースは、二人一組でカートを運転し、総合タイムを競うものだ。 バトルなだけあって、複数のカートが同時に走行し、互いを蹴落としあってゴールを目指す。 途中様々なハイクォリティ技術が使われているらしいが、どの辺がハイクォリティなのかは企業秘密だそうだ。 いい成績を残すと、それなりにいい賞品がもらえるらしい。 賞品はともかく、俺はカートレースに燃えていた。 一般的男性の傾向として、俺もこの手のレース物が大好きだったからだ。 秋葉は、監視センターで二人の様子を見ていた。 口許には、いつぞやの妖艶な笑みを浮かべている。 ふと、手を首元に持ってくると、親指を立て、スッと横に引いた。 そして一言。 「殺って、おしまいなさい。」 「「はい。」」 秋葉の命令に従順な翡翠と琥珀。 キレてしまった秋葉には、何を言っても無駄だと言うことは身に染み付いて知っているようだ。 盤面のボタンを、マニュアルを片手に操作する。 「それじゃ、いきますよー」 旗振りのお兄さんが旗を振った。 スタートの合図だ。 俺は、目一杯アクセルを踏んだ。 きゅきゅきゅきゅきゅーー タイヤが路面との摩擦に悲鳴をあげる。 そして、俺達のカートは、一直線に爆走した。 後ろに向かって。 「へ?」 きききききーーー ばこーん 次に走る予定だったカートを吹っ飛ばし、俺達はなおもコースを逆送する。 カートには幸せ一杯、ラブラブな恋人が乗っていたような気もするが、とりあえず無視。 というか俺達はそれどころじゃない。 「くぬっ、くぬっ、くぬっ。」 すかっ、すかっ、すかっ 俺は必死になってブレーキを踏んだがカートは全く止まる様子を見せない。 「あははー、これってこういう乗り物だったんだ。面白いね志貴。」 アルクェイドは呑気に笑っている。 「そんなわけあるかーーーー!」 ばこーーん ばこーーん 俺達の乗ったカートは、次々に恋人達のカートを吹っ飛ばす。 「すいまーーせーーーーんーーーーーーー」 俺達はドップラー効果を残しながら走り去っていく。 ハンドルも勝手に動いている。 右、右、やや左、戻って大きく右 きゅきゅきゅきゅきゅーー 鋭角コーナーを、ドリフトで難なく切り抜ける。勿論アクセルは全開のままだ。 ぶぉん 「ぬわーーーーーっっ!」 ドリフトの勢いで脳みそがシェイクされる。 ばぉぉぉぉぉぉん カートが空中に投げ出される。全速なためちょっとしたアップダウンでもすぐジャンプしてしまうのだ。 「……………」 秋葉はカメラの映像を見て唖然としている。 「すいません秋葉さま。ボタン押し間違えました。」 翡翠は至極冷静。 遊園地内の機器は、カートを含め全てこの中央センタから操作が出来るようになっていた。 当初の予定では、機械による完璧操作で、兄さんにここの賞品を貰ってもらう予定だったのに。 殺れといいつつ行動がかわいい秋葉。 結局、コース上を走っていた全てのカートをひっくり返して、俺達はスタート地点まで戻ってきた。 逆走だったにも関わらず、コースレコードをたたきだしていたのだ。 俺達は賞品を引っ手繰るようにしてそのアトラクションを後にした。 旗振りの職員は、しきりに俺達の乗ったカートを調査していた。 そもそもカートが後退することすら知らなかったらしい。 その顔にはハテナマークがめいっぱい浮かんでいた。 俺達にひっくり返された恋人達の熱い(刺すような)視線を縫うようにして、俺達はそのアトラクションを後にした。 「秋葉さま、でも目的は達成しました。」 翡翠は冷静に言う。 「ねえ志貴、これなあに?」 アルクェイドはカップ中央のハンドルを指差す。 「ああ、これか。これをまわすと、カップの回転速度が上がるんだ。」 「へー。ねえ志貴、やってみていい?」 「ああ。」 アルクェイドはハンドルを回し始めた。 それにあわせて、カップの回転速度も上がる。 「あははー。ねえ志貴、面白いよー。」 アルクェイドは嬉しそうに笑う。 この笑顔が見れただけでも、今日、アルクェイドと遊園地に来てよかったと思う。 …ぐぃんぐぃんぐぃん アルクェイドの顔を見て笑っている志貴を見て、秋葉のジェラシーがくすぐられる。 「むむむむっ、琥珀、兄さんのカップの回転速度を最高速にしなさい。」 「らじゃー。」 琥珀、盤面上の上向き矢印を連打する。 ぐぃんぐぃんぐぃんぐぃんぐぃんぐぃん 何かやけに回転速度が速いな。 「って、アルクェイド、お前回しすぎだ!」 「えー、大丈夫だよー。わたし全然へいき。」 アルクェイドは屈託無く笑う。 そういえばこいつは吸血鬼だった。 三半規管の発達が並じゃないのかもしれない。 とはいえ俺はただの人間だ。アルクェイドの運動神経についていけるわけもない。 「ぬわっ、たっ、お、おい、アルクェイド、や、やめっ…」 俺はあわててハンドルを逆回転させた。 ぐぃんぐぃんぐぃんぐぃんぐぃんぐぃん カップは何故か止まらない。 ゆったりと回るカップたちの中で、俺とアルクェイドの入ったカップだけが異常な回転速度で回りつづけていた。 「ぬわ〜〜〜〜〜」 俺の悲鳴が、辺りに木霊した。 「…もう、志貴ったら、だらしないんだから。」 「お前と一緒にするな……」 カップを出た後、俺はベンチでぐったりしていた。 「それじゃあ、何か買ってこようか?」 「ああ、頼む。丁度いい、あのソフトリームを買って来てくれるか。」 俺はアルクェイドに二人分の金を渡す。 「うん、いいよ。」 アルクェイドは、たたた、とこ小気味よく走り出した。 で、買って、両手にソフトクリームを持って、たたた、と戻ってくる。 そこへ 遊園地のマスコットキャラ、デビルアッキーが、アルクェイドの足を引っ掛けた。 「よっしゃ!」 ここは中央管理センター。 秋葉小さくガッツポーズ。 無論、兄さんの位置からは見えないように、死角からの足のひっかけである。 で、再び現場。 「あっ」 べしゃ ぼたぼた なんと。 アルクェイドが転んだ。 それも顔面から。 もしかしたらアルクェイドもあの回転で少しは足に来たのかもしれない。意外とかわいいとこもあるんだな。 俺は真実を知ることなく、そんな平和なことを考えていた。 アルクェイドはしばらくそのままだったが、やがてむくりと起き上がり鼻の頭を土で汚したまま頭をかく。 「へへー、転んじゃった。」 ふと、その視線が地面の上に注がれる。 ソフトクリームは地面に逆さに突き立っていて、もう食べようがない。 「あ………」 ぼんやり呟いて、アルクェイドは俯いてしまう。ガッカリしたらしい。 まいった。今のはポイント高い。 俺は思わず声を押し殺して笑う。 「むー、何よ志貴、せっかく買ってきてあげたのに。」 アルクェイドは眉をよせ、怒ったポーズを取る。 だけど、その怒った様子も可愛い。 「はは、悪い悪い。アルクェイドも普通の女の子なんだな。安心したよ。ほら、立てるか。」 俺はアルクェイドに手を差し出す。 「あ、うん。ありがと。」 アルクェイドも俺の手をとり、立ち上がる。 ソフトクリームはしょうがないか。 代わりに面白いものが見れたし。 「…ねえ志貴、あの人形、さっきからずっとついてきてるんだけど。」 「ん?」 ふいっ アルクェイドの言ったとおり、人形が俺達の後をつけていた。 俺が振り返ると、デビルアッキーはささっと横を向く。 で、俺が前を向くと、またこちらをじーっと見つめる。 そういえばあの人形、俺達が遊園地にきた直後からずっと見かけてるような気がする。 ふいっ ささっ ふいっ ささっ じーっ ちらっ…ぷいっ 怪しい。 あからさまに怪しい。 俺が人形を見つめていると、たまにちらちらこちらを見る。そして、俺と目線が合うと、また逸らす。 心なしか、汗をかいているようにも見える。 琥珀から、この人形はロボットだと聞いていたが、それにしては動きが妙に人間くさいなぁ。 実は、この人形は秋葉の動きと連動していた。 秋葉の身体中に取り付けられたセンサーが、秋葉の動きを忠実に再現するのだ。 が、そんなことはその場の俺はわかるはずもない。 俺はデビルアッキーに歩み寄る。 つかつかつか びくっ 人形が一瞬身震いする。 もしや。 そう思い俺はカマを掛けてみる。 「よう秋葉、こんなとこで何やってんだ?」 「にゃ、にゃ〜お」 猫の鳴きまねをするデビルアッキー。手つきは猫招きのポーズだ。 その口から洩れるのは、間違いなく合成の電子音声。 猫の鳴き真似をすることからしてますます怪しいのだが、ここは変わった遊園地だし、もしかしたらそういうプログラムになっているのかもしれない。 …怪しいけど、やはり思い過ごしだったようだ。 「どうやらただの人形だったみたいだ。」 「う〜ん、そうかなぁ。」 アルクェイドはまだ納得しないようだった。 「ま、いいさ、次のを乗ろうぜ。」 「…そうね、そうしましょうか。」 納得しないまでも、それでも俺達は、人形のことは忘れ遊園地のアトラクションを回るのに専念することにした。 後ろで小さくガッツポーズをするデビルアッキー。 「ふう、危なかったわ。」 「さすが秋葉さま。咄嗟の判断力も優れています。」 「当然よ。遠野家の当主たるもの、これくらいのことはできて当たり前です。」 「別に遠野家の当主である必要性はないと思うのですが…」 翡翠は小声で聞こえないように真顔でツッコミを入れる。 大分日も傾いてきた。 後少しで、太陽も完全に水平線に没するだろう。 俺達はその後も順調にアトラクションをクリアしていった。 アルクェイドは、ほんの些細なことでも面白そうに笑ってくれる。 これだけでも、俺は今日連れてきて良かった、と心から思う。 「ねえ志貴、次はあれに乗ろうよ。」 「げっ」 アルクェイドの指差す先には、メリーゴーラウンドがあった。 白い馬や馬車などが曲にあわせてくるくる回る、年端も行かぬ少女達御用達のアトラクションだ。 ただでさえ、アルクェイドは目立つ。 それに加え、いい年した男が一緒になってメリーゴーラウンドを回ってる姿は、ある意味こっけいでもある。 「どうしたの志貴。早く乗ろう。」 アルクェイドはあくまでも無邪気に笑う。 もともと今日はアルクェイドのために遊園地に来たのだ。アルクェイドの望みはできるだけ叶えてやりたい。 俺は、はぁ、とため息笑いをして、アルクェイドに従った。 さすがに白馬に跨るのはアレだったので、俺とアルクェイドは馬車に乗り込むことにした。 その馬車の中。 「……………」 「……………」 アルクェイド、無言。 俺も、無言。 馬車の中で俺達は無言だった。 馬車の中には何故かデビルアッキーもいた。 何故か俺の隣りの位置をキープしてるデビルアッキー。 馬車に乗り込むことが決まった途端、待ち行列の人をふっ飛ばしながら俺達の馬車に乗り込んできたデビルアッキー。 遊園地のサービスの一つとして、マスコット人形が様々なアトラクションに同乗してくれる、というものがあるらしい。 同乗の対象はランダムで、マスコット人形はロボットだけにお金を払う必要も無い。 これがまた、お子様を伴う家族連れとかにはとても人気があるらしい。 いや、まあ、それはそれでいいんだけど… デビルアッキーは腕を俺に絡め、頭は俺の方に枝垂れかかっている。 アルクェイドは未だに呆然と俺達の様子を眺めている。 そりゃそうだ。俺だってどうしていいかわからん。 それにしてもこの人形、俺としてはとある人物の行動そのものとしか思えないのだが、でもやはり耳を澄ますと中で機会がウィンウィン動く音が聞こえるし、ロボットには違いない。 俺の頭にはハテナマークが一杯浮かぶのだった。 一方、中央管理センター。 「んふふふふー。兄さんの隣りは私の指定席なんだから♪」 髪を赤くしたまま、一人で腕絡め枝垂れかかりポーズをとり監視カメラからの画像に悦に入る秋葉。傍から見るとこれはこれで異様な光景である。 「……………」 「……………」 翡翠、無言。 琥珀も無言。 「ねえ志貴。覚えてる?」 馬車が回転しだすと、アルクェイドが話し掛けてきた。 「ん、何を?」 「前に、『俺はずっと無意味に日常を過ごしてきた』って言ったじゃない。」 そういえばそんなことを言ったような気もする。 「ああ、でもそれがどうしたんだ。」 「人間って、すごいな、って思って。」 「凄いって、何でさ。」 「あれからずっと、無意味な日常を過ごそうとしてるんだけど、すごく難しいもん。わたし何をすればいいのか判らないよ。」 「…そうか。」 考えてみれば、アルクェイドには目的なく日常を過ごしたことなど無いのだ。 ロアを追うか、仲間の吸血鬼を狩るか。人生の謳歌、なんて知らないに違いない。 アルクェイドには、無意味に日常を過ごすことすら、許されていなかったのだ。 「いいんじゃないかそれで。無意味な日常っても、ホントに何もしないというわけじゃなくて、ただ生きてるってだけだから。無意味な日常がどういうものかを模索すること自体も無意味な事と言えなくもないし、何かをしなきゃいけない、なんて思い込む必要もないよ。」 「そうなのかな。…きっと、そうなんだね。ありがとう志貴。わたし、今日はホントに無意味に楽しいよ。」 「こんなとこでよければ、いつでも連れてってやるよ。また、来ような。」 「うん。」 それきり俺もアルクェイドも言葉が無くなった。 メリーゴーラウンドは回転し続ける。 窓の外を見ると、夕暮れのオレンジと、メリーゴーラウンドのライトアップされた煌びやかな様子が、幻想的な美しさを醸し出していた。 「……………」 秋葉はマスコット人形の運転モードをオートに戻し、体に取り付けたセンサーを外し始める。 「琥珀、翡翠、帰ります。用意なさい。」 「あれ、宜しいのですか秋葉さま。」 「ええ、今日のところは撤収します。このまま二人きりにさせて上げましょう。」 「はれー、秋葉さまにしては珍しい。風邪でも引かれましたか?」 ぼかっ 「あいたっ。」 「琥珀、お前はいつも一言多いんです。私にだって情けはあります。今の会話を聞いて厚かましくも邪魔しつづけられるわけがありません。」 「今までの行動が既に充分厚かましいと思うのですが…」 と、翡翠小声で突っ込み。 もうすっかり日が暮れてしまった。 門限もあるし、あと一つくらいしかアトラクションを試せない。 最後に、アルクェイドに取って置きの思い出を残してやりたい。 … 「アルクェイド、最後はあれに乗ろうか。」 指差す先には、観覧車。 日も暮れた今、遊園地を高いところから見れば、きっと忘れられない夜景が見れるだろう、そう思ってのことだ。 「それじゃ、一周十五分です。ごゆっくりどうぞ。」 係員のお兄さんは、そういってゴンドラを閉めた。 徐々に遠くまで見渡せる風景。 地平線の彼方には、まだ沈みきれない夕日の名残が、僅かに紅く残っている。 だけど、夜空には、星が燦然と輝いて。 見通せば、遥か遠くまで、人の住む証が光となって瞬いてている。 その光一つ一つの下に、人がいて、生活している。 「…人間の世界って、こんなに、明るかったんだ。」 アルクェイドには、こんなことですら、珍しいのか。 頂上近くまで差し掛かったとき。 ど〜ん ぱちぱちぱち 突然、窓の外の夜空が輝いた。 タイミングよく、花火ショーの時間と重なったらしい。 「きゃっ」 アルクェイドらしくない、可愛い、悲鳴。 思わず、ドキリ、とした。 「花火…って言うんだ。」 「綺麗…」 これ以上、言葉なんていらない。 アルクェイドは、身を乗り出し、一心に花火を見つめている。 花火の光が、赤に青に、アルクェイドの全身を照らす。 赤く照らされたかと思えば、今度は青。次々に色が変わる。 笑う。 本当に、嬉しそうに、笑っている。 おそらく アルクェイドの生涯の中で、初めて見るものばかりなのかもしれない。 その様子が、あまりにも、幻想的で。 俺は、いつしか、 花火を見ることを忘れ、ただ、この白い女の人に見惚れていた。 俺達は、互いに寄り添っていた。 俺はアルクェイドの肩を抱き、アルクェイドは、俺に頭をもたれかける。 アルクェイドの髪の匂いが俺の鼻をくすぐった。 やがて花火も終る。 ほんの数分の、天空のショー。 どちらからともなく見詰め合う俺達。 明かりのないゴンドラの中で、 俺達は、キスをした——— ゴンドラを降りるとき、俺達は、何時の間にか手をつないでいた。 少しだけ冷たいアルクェイドの手が、火照った俺の手に気持ち良かった。 「兄さん、今日の郵便局はどうでしたか。」 夕食の席で、秋葉が突然そんな話を振ってきた。 「へ?あ、ああ、うん、郵便局ね。まあまあじゃないかな。でもどうして突然?」 「いえ、兄さん、今日は一日中郵便局に詰めてらしたようですから。」 確かに今日は一日遊園地には行ってたけど。 「はは、郵便貯金もなかなか楽しかったよ。はは、支払いには3回6回9回12回のリボ払いと現金一括払いがあって、どれにしようか凄く迷っちゃってさ。」 「志貴さま、それ、郵便局じゃないです。」 翡翠の突っ込みはあくまで冷静だった。 —————————————————————— 夢。 「おはようございます。志貴さま」 「——ああ、おはよう、翡翠。」 やっと夢から覚めた。 俺は夢から覚められたことに安堵し、大きく息を吐いた。 ここの所夢見があまり良くないからだ。 世界を見つめる。 目に入るのは、輪郭とツギハギの世界。 翡翠の身体中に、線が走って見える。 ずきり こめかみが痛む。 頭がはっきりしない。俺はぶるぶると頭を振り、頭に血を送る。 何故だろう、視界がはっきりしない。いつもはもっと色鮮やかな世界が見えていたと思ったけど…。 そうか、眼鏡をしていないんだ。 それにしても世界が暗い。 まるで線と輪郭しか見えないかのようだ。 「翡翠、すまない、眼鏡を取ってくれないか。」 「眼鏡?…申し訳ありませン志貴さま、志貴さまは眼鏡をかけていらっしゃらないはずですが。」 ———ん、ああ、そうかそうだっけ——— 俺は眼鏡なんて使っていないんだった。 それじゃあこのヒビだらけの世界もしょうがない。 翡翠の身体中に走る線も、しょうがないんだ。 ずきり、とこめかみが痛かったような気がした。 こうして身体中に線が走った人間がしゃべってるところを見ると、まるで人間が話しているとは思えない。 なんか何処かの科学者の失敗ロボットが、今にも壊れる直前の状態のようだ。 壊れたロボットは、停止する。もう二度と動かない。 なんだ、ニンゲンが死ぬってのも、単に動かないだけじゃないか。 ロボットと、おんなじだ。 「志貴さま、どいてください。ベットメイクをします。」 翡翠はシーツを掲げ、俺にベットの明渡しを要求する。 「あ、ああ。」 普段の翡翠とちょっと違うと疑問を感じたが、俺は素直にベットから起き上がる。 そういってこちらを見た輪郭の翡翠には、 右腕が ついて いなかった——— 「なっ!!」 「——?どうされました?」 「ひ、翡翠!そっ、そのっ右腕!!」 「右腕が、どうかされましたか。」 「だっ、だって、ついてない———」 翡翠は、俺の言ってることが判らない、とでもいいたげな、怪訝な表情で答える。 「なにを言ってるんですか。これは、志貴さまが、切リ落とされたのでハ、ありませんか———」 翡翠は、肘から先が存在しない右腕を持ち上げる。 翡翠は、ニイ、と笑う。 暗転。 「ふたりとも、おはよう」 「おはようございます、志貴さん」 「おはようございます。今朝はずいぶんゆっくりなんですね、兄さん。」 ここは、居間。 ああそうか、翡翠に起こされた後、俺は、朝食を食べに来たんだった。 輪郭と線だらけの、秋葉と琥珀。 俺は、この壊れやすい世界の中で、いつも二人に挨拶をしていたんだった。 もっと色彩が鮮やかで、生きている世界かと思っていたけど、それは俺の思い込みに過ぎなかったようだ。 何故なら、俺の眼は、直死の魔眼なのだから。 琥珀が、杖を突いている。 いや、杖と思ったそれは、琥珀の脚から伸びていた。 義足だった。 琥珀の脚が、かたっぽ、無くなっていた。 「こっ、ここ琥珀さん!あ、脚が、無———」 「何をいってるんですか、志貴さんが切ったんですよ。」 琥珀が、いつもの表情で、言う。 ———俺ガ、キッタ?——— 「馬鹿な、俺はそんなことしていない!」 「大丈夫ですよ。私こう見えても、痛みには強いんです。片足が切リ落とされたくらい、へいちゃらです。」 琥珀は、ニイ、と笑った。 ばかなばかなばかな!!やめろ!!! 「あら、何を騒いでいるのですか、兄さん。」 赤ん坊を抱いて、秋葉が俺の後ろに立つ。 「秋葉、なんか琥珀さんが変なんだ。脚が無くって笑ってて———」 「何を言うのですか兄さん。琥珀の脚を切ったのは兄さんなんだから、脚が無くて当然です。」 「秋葉!」 秋葉の顔は闇に隠れている。 秋葉の顔に、罅(ひび)、が見えた。 頭頂から眉間、そして頬を伝い左耳の下まで抜ける、罅が見えた。 ものの壊れやすい線、だった。 ぱし 赤ん坊の手が、秋葉の顎にぶつかった。 ごろん 秋葉の頭が割れて、何かが、落ちた。 「え?」 あれ、ちょっと待てよおい、今何が落ちた? なんで秋葉の顔が半分なんだ? それは、何か黒くて長い糸条のものが一杯ついていて、やや不恰好な丸みを帯びた形をしたものだった。 「あらいけない、くっつかないから、落ちてしまったわ。」 秋葉はその落ちたものを拾い上げ、またもとのようにくっつける。 それは、秋葉の、頭だった。 「兄さん、兄さんに切られたから、傷、くっつかないじゃないですか。ほら、顔を傾けるたび、いつも落ちてしまいます。」 そう言って秋葉は顔を傾ける。 そうすると、線に沿って、顔が割れた。 ごろん また、頭が落ちる。 「ほら、兄さン———」 秋葉が、片目だけで下を見、また俺を見る。 にい 半分だけの顔で笑う。 その笑い方があまりにも不気味で、俺はずりずりと後ろに下がった。 「はは、あ、秋葉、嘘だろ、冗談止めろよ…」 「いいえ、冗談ではありませんワ。」 秋葉が近付いてくる。 ごん ぺたん ごん ぺたん 琥珀の足音。 義足と素足が、交互に床につく。 「志貴さん、そうですよ。」 琥珀が、近付いてくる。 視界の隅に、翡翠も見えた。 「な、なあ翡翠、助けてくれ、秋葉と琥珀さんが変なんだ———」 俺は思わず翡翠に助けを求める。 「いやです。」 翡翠は即答する。。 「志貴さまが切ったので、わたしには腕がありませんから。」 そして、肘から先の無い腕を俺に見せた。 「兄さん」 秋葉がにじり寄る。 「志貴さん」 琥珀が不器用に寄る。 「志貴さま」 翡翠が先の無い右腕を伸ばす。 「はは、は、やめろ、やめろよ、やめろおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおお!!!」 暗転。 俺は、目を覚ました。 【五日目(水曜日)】 もう、今日も兄さん遅いんだから。 秋葉は、居間で未だ起きてこない兄のことを想っていた。 手には、赤ん坊。 何時の間にか、翡翠と琥珀が働いている間は秋葉と志貴が世話をする、という暗黙の了解ができあがっていた。 秋葉の抱き方もだいぶ様になってきている。 思い出されるのは、二日前の兄とのやり取り。 いい雰囲気まで言った所を、赤ん坊のせいで台無しになってしまった。 でも、赤ん坊がいたからこそ、いい雰囲気にもなれたのだ。秋葉もそれは分かっていた。 赤ん坊のおかげで、普段見せることの無い素直な自分をさらけ出せた。 思えば父の教育は厳しかった。 素直になることは許されず、常に自分を律し、人前に醜態を晒さない。 それが8年も続けられたせいで、自分というものを素直に表に出すことが出来なくなっていた。 兄との会話も、つい意地を張ってしまう。 もっと素直な自分をさらけ出せば、兄も私を振り向いてくれるだろうか。 「私、魅力が無いのかな———」 なんとはなしにそう呟く。本日何度目かのため息。 赤ん坊はそんな秋葉の気持ちなどお構いなしにきゃっきゃと笑う。 はぁ またため息をつく。 「私の、ち、ちち乳が大きければ、兄さんも振り向いてくれるのかしら。」 やはり良家のお嬢様、誰もいないところでもそういう単語を口にするのは憚(はばか)られるようだ。 琥珀や翡翠は、私より随分と大きい。 アルクェイドやシエルとかいう人物は、巨乳といっても差し支えないくらいだった。 それに引き換え、自分は。 つつー 自分の胸元をみる。 しーん …という擬音がピッタリ来るような、あまり(意訳:殆ど)無いムネ。 そういえば。 母親になった女性は、乳が大きくなると聞いたことがあった。 「———遠野先輩、女性の胸には、母性と愛情が詰まっているんです。」 晶が、以前教えてくれた。 「生まれてくる赤ちゃんに、母親としての愛情をたっぷりと分け与えるんです。子供を産んだ母親は、愛情をいっぱい分け与えるために、胸が大きくなるんです。」 「あ、ああ、そうなの。」 秋葉はこの方面の知識にはてんで疎い。事の真偽を知る術は無かった。 母親として愛する。母親の愛情がいっぱい詰まれば、大きくなるということだろうか。 ぢー 赤ん坊を見る。 「乳、あげてみようかな。」 勿論秋葉は出産どころか経験すらない。乳など出るはずも無い。 だけど、授乳の真似事をすれば、少しは胸も大きくなってくれるかもしれない。 兄さんは、胸の大きな女性が好きかしら。 他の人と比べて、私に対する態度がやや冷たいと感じるのが、胸の大きさのせいだったとしたら。 ぢー 赤ん坊を見る。 兄さんが赤ん坊を拾って今日で4日目だけれど、この赤ん坊も大分私に慣れてくれた。 まだ全部は無理だけれど、少しは言いたいこともわかる。 自分が、こんなにも赤ん坊を大事にするとは意外だった。 少女時代の思い出が思いでなだけに、私は子育てとは無縁の世界にあると想っていた部分もあるのかもしれない。 「だうー」 赤ん坊が、何かいいたげにこちらを見つめる。 「ん、どうしたの?」 「だうー」 何かしら。今までに無い言葉だわ。 「だうー」 「何かしら……おしめ…じゃないわね。眠いというわけではなさそうだし…、お外に出たいのかしら。」 「ぶー」 赤ん坊は不満そうだ。 暫く悩んでいたが、てんで分からない。 このままでは埒があかないと悟った赤ん坊は、とうとう実力行使に出た。 ぺしぺし 「きゃっ」 秋葉らしくなく、女の子らしい悲鳴をあげてしまう。 赤ん坊が、秋葉の胸をたたいた。 赤ん坊のやっていることとはいえ、恥ずかしさは隠せない秋葉。 「こーらー、そんなとこ、みだりに叩いちゃいけません。」 秋葉は空いている手で赤ん坊の手首を捕まえる。 それでも赤ん坊は諦めようとしなかった。 それで流石に秋葉も感づく。 「ももももしかして、おおお、おっぱいが欲しいの?」 「だあ」 良く分からないが多分これは肯定の返事なのだろう。 どきどきどきどき おっぱいをあげてみようとした矢先、折から、赤ん坊の方から催促だ。 含ませてやるだけでも——— そんな思いが脳裏をかすめる。 きょろきょろきょろ 琥珀——は庭の掃除をしている頃かしら。 翡翠——も屋敷内の掃除のはずね。 兄さんが起きてきたら、気配でわかるわ。 どきどきどきどき つまり、今ここに、秋葉と赤ん坊以外誰もいない。 秋葉は、授乳の真似事をしてみる決心をするのだった。 ————— 「これで…いいのかしら。」 ブラジャーを外し胸をはだけさせ、再び赤ん坊を抱きかかえる。 吸いつけられるように、秋葉の乳首を口に含んだ。 赤ん坊は、生まれて持った本能で、無心に秋葉の乳首を吸う。 ちうーーちうーー その感触が、たまらなく———— 「うひゃっ、うひゃひゃひゃっ、くっ、くすぐったいぃぃ〜」 ちうーーちうーー 赤ん坊は吸うのをやめない。それどころか、いよいよ吸う力が増す。 「あひゃ、うわっ、も、もうだめ〜」 思わず手の力を抜き赤ん坊を胸から遠ざけようとするが、赤ん坊は全身の力を使い秋葉にしがみついて離れてくれない。 「あひゃひゃひゃっ、こ、こらっ、だめだってば〜」 そのまま暫くの間、秋葉はくすぐったさに耐えるのだった。 ————— ちうーーちうーー 慣れてくると、赤ん坊の暖かさが心地よかった。 思わず微笑をもって、赤ん坊を見守ってしまう。 ———私のお母さんも、私を育ててくれたとき、こんな想いを抱いてたのかな——— 秋葉には母親との記憶が殆ど無い。 もはや写真上でしか、母親の顔を認識できない。 だけど秋葉は、赤ん坊に乳を含ませている自分の姿を思い、覚えているはずの無い母親に抱かれて眠る自分の姿を重ね合わせた。 ふっと、微笑んでいる母親を垣間見た気がした。 んで、 秋葉が母との思い出に浸っていた、そんなとき。 「何をやっていらっしゃるのですか、秋葉さま———」 「うひゃうわぉう!!」 庭の掃除を終えた琥珀が、秋葉に気配を悟らせること無く居間に姿をあらわした。 どう好意的に解釈しても赤ん坊に授乳しているようにしか見えない秋葉。 秋葉硬直。琥珀も硬直。 チッチッチ 三秒。 「あ、ああっ、ああ、あらあらまあまあ」 秋葉よりも早く現実に戻ってきた琥珀は、琥珀は意味不明な言葉を呟き、ぽんと手をたたく。顔は動揺のため赤い。 「なるほど〜、秋葉さまもそんなことをされるお年頃なのですね。」 琥珀は嬉しそうにうなずく。 かぁぁぁ 秋葉の思考が現実へと舞い戻ってきた。 と同時に、秋葉はこれ以上無いってくらい赤面する。 「あ、ああああの、違うの琥珀、これにはワケが———」 「分かってますよ〜。志貴さんのためですよね〜。これじゃ翡翠ちゃんも相当頑張らないといけませんね〜。」 琥珀はなにかを一人で納得している。 「違うの琥珀、聞いて!」 「う〜ん、屋敷に仕える使用人としては秋葉さまを応援するべきなのでしょうが、それ以前に翡翠ちゃんの姉としてこの状況は見過ごせません。」 琥珀は聞いちゃいない。 「あっ、でももちろん志貴さんや翡翠ちゃんには秋葉さまがアインシュタインちゃんににお乳をあげてたなんて言いませんから安心してくだ———」 ばこっ 「ぐふっ」 最後まで言うことなく、殺伐とした断末魔の叫びを上げ、琥珀は秋葉の一撃で昏倒した。 秋葉はあわてて身なりを整える。 この恥ずかしい出来事は、琥珀の記憶から抹消しなければ——— といって、人の記憶がそう簡単になくなるわけが無い。 どどどどうしよう そうだ 確か、記憶喪失を直すためには、喪失時と同様の強いショックを与えるのが一番いいと、以前兄さんが言っていたわ。 『———喪失時と同様———』 つまり記憶喪失にさせるにも、強いショックを与えればいいわけであって——— きらりん 秋葉の目が怪しい光を放つ。その口元には、妖艶としか表現できない笑みを浮かべている。 いつのまにやら秋葉の手に握られるのはモーニングスター。 神官用の武器だから、この物語中ではシエルあたりが持っていそうな武器ではあった。 だけど今、それがなぜか秋葉の手にあった。 … ずどおぉぉぉぉぉぉん その瞬間、屋敷中に豪快な音が響き渡る。 たたたたた 「どうしたのですか秋葉さま。今何か凄い物音が———」 翡翠が居間に入ってきた。そこで翡翠が見たものは——— 「こ、これは!」 ・頭に巨大なたんこぶをこさえてうつ伏せに昏倒している姉さん。 ・後ろ手に何かを隠し持った秋葉さま。 ・見てはいけないものを見てしまったかのようにおびえている赤ん坊。 「姉さん!どうしたのですか姉さん!」 翡翠は姉の身体を揺さぶる。 「はうー、わたしは何も見てない聞いてない言いません〜」 だけど姉さんは意味不明なことを呟くだけだ。 翡翠は秋葉の方に向き直る。 「秋葉さま、一体ここで何があったのですか。」 「し、しらないわ、私がここに来たときは既に琥珀が倒れていたの。」 「これは—————」 密室(じゃないけど)殺人(倒れているだけ)事件ですね。 カチリ 翡翠の中の探偵スイッチが入った。 昨日に引き続き、またまた洗脳探偵翡翠の登場である。 「現場検証を行います。」 スイッチの入った翡翠は、完全に人としての人格を捨て去り、推理するためだけの機械と化す。 「秋葉さま、後ろ手に持っていらっしゃるのは何ですか」 「えっ、あっ、こ、これ?ああ、これね。私がここに来たとき、床に落ちてたの。」 といってモーニングスターを差し出す。 翡翠はまじまじとモーニングスターを見詰める。 「ふむ、姉さんの傷と照らし合わせても、どうやらそれが犯行に使われた凶器のようです。」 ぎくぎくっ 焦る秋葉。 現場検証もへったくれもなく、そんなものが殺害(倒れてるだけ)現場に置いてあったら、誰が考えてもそれが犯罪に使われた凶器だと結論付けられるのではあるが。 「秋葉さま、先程の音がする前、どこで何をしていらっしゃいましたか。」 「まさか私を疑うというの?」 「いいえ、あくまでも参考のためです。何が犯人を決める手がかりになるかわかりませんから。」 「それもそうね。いいわ。音が聞こえるまで、私は自分の部屋で夏休みの宿題をしていたわ。」 「部屋、ですか。いつもでしたらこの部屋で志貴さまが起きてくるのをお待ちになられていると思いましたが…」 「あ、あはは、きょ、今日はたまたまよ。宿題がありすぎて、計画を立ててやらないと終らないから。」 「そうですか…それではアインシュタインはどうしてましたか。」 一瞬、秋葉の脳裏に琥珀に目撃されたシチュエーションがよぎる。 そのため、つい否定的な感情が走ってしまった。 「さ、さあ、知らないわ。ずっとここにいたんじゃないかしら。」 「ということは、アインシュタインが唯一の生き証人(琥珀は倒れているだけ)ということになりますね。」 「そ、そうね。」 「では、アインシュタインに事情聴取を行いましょう。」 しまったぁ、と思ったが最早後の祭り。翡翠は赤ん坊に向かい歩き始める。 「はんっ、赤ん坊なんかに事情聴取したって、何も分かるわけ無いわ。」 開き直りと、意地が半分混じって、秋葉はそう呟く。 「———ときに秋葉さま。」 翡翠は途中で歩みをとめ、秋葉を振り返った。 「な、何よ。」 「赤ん坊が一人で居間にいたというシチュエーションも物語の進行上不自然のような気がするのですが。」 「そ、それはだから琥珀がここに居る(倒れてる)じゃない。」 「姉さんは先程まで一人で庭の掃除をしていたのを私は目撃しています。」 「そう、じゃ赤ん坊が一人でここまで歩いてきたのね。」 「…はいはいしか出来ないと想ったのですか、アインシュタインもなかなかやるものですね。」 無茶苦茶を言う方も言う方だが、信じる方も信じる方だ。 翡翠は再び赤ん坊に向き直る。 「ふぅっ。」 秋葉少し安堵のため息。 と 「———ときに秋葉さま。」 「うわぉう!」 「…どうされたのですか?」 「は、はは、いえ、なんでもないわ。」 「そうですか…。秋葉さま、この部屋に来る直前、私は秋葉さまの部屋の掃除をしていたような気がするのですが…。」 「ななな何言ってるのよ私は部屋に居たわ貴方の視界に入ってなかっただけ何故なら私は隠れていたから…」 完全な棒読みである。 「それでは部屋に居たとき私は一人だったと思ったのですが、それは私の気のせいだったのですね。」 「そ、そうよ、そう。きっと、気のせい。」 「そうですか。」 翡翠再度赤ん坊に向き直る。 「———そういえば秋葉さま。」 「しつこいっ!」 流石に三度目ともなると慣れる。 「…秋葉さま、一つだけ、試したいことがあるのですが。」 「?何よ。」 「いえ、ちょっとした、おまじないです。」 おまじない??? 突然何を言い出すのか翡翠は。 まあいいわ、深く考えても始まらないし。 「ふん、何をやるのか知らないけど、いいわよ。」 「それでは失礼して…秋葉さま、この指を見ていただけますか。」 といって翡翠は人差し指を立てる。 「それではじっと見つめてて下さい。」 秋葉は何をやるのかと訝しみながらも指を見つめる。 翡翠は、指をらせん状に回転させ始めた。 ぐーるぐる、ぐるぐる 「…なによ、これ。」 「いいから見ててください。」 ぐーるぐる、ぐるぐ〜る 秋葉は翡翠の指先を目で追う。 前々から変わり者だと思っていたけど、今日はいつにもまして変ね。 秋葉は自分の事は棚上げしてそんなことを思っていた。 ぐるぐ〜るぐるぐ〜る 翡翠は黙々と指を回しつづける。 「はは、何やってるのよ。こんなもんに私が惑わされるわけ…」 全く、こんなものに惑わされるのは兄さんくらいなものよ。 ぐーるぐる、ぐるぐる 「惑わされるわけ…惑わ…わけけけけ」 惑わされるのは志貴くらいと言いつつ思いっきり惑わされていたりする。お嬢様然としてやっぱり抜けている秋葉だった。 翡翠はここに至っていたって真面目である。 「わ、わけ…」 「…そろそろ、いいでしょうか。」 翡翠は指を止め、じっと秋葉の瞳を見やる。 秋葉の瞳が宙を彷徨い、足取りもふらふらとしてて覚束ない。 「秋葉さま、台所のカスタードプリンを食べたのは貴方様ですか。」 実に単刀直入な聞き方である。 信じるといいつつはっきりと疑ってのける、これが翡翠のこうと一旦疑ったら何が何でも犯人に仕立て上げる洗脳探偵たる所以である。 しかし仕立て上げる犯人像のやった犯罪が全然今回と関係ないのも、翡翠の翡翠たる所以である。 結局、スイッチが入ったといっても、やってることはいつもと変わらないのか。 「はいそうです。」 秋葉あっさりと罪を認める。 血を吸うぐらいの大物犯罪者が、カスタードプリンごときで動揺するはずも無い。 「…そうですか。どうやら秋葉さまは本当に何も知らないようですね。」 結局あのぐるぐるはなんだったのか。いやそれ以前にどういう論理構成でカスタードプリンと琥珀の今の状況が結びつくのか。 全ては翡翠の心の内に。 意味なしと言ってしまえばそれまでである。 こーゆーお茶目な部分も、洗脳探偵翡翠の特徴なのである。 ぱん 翡翠は手をたたく。 すると秋葉がはっと言う表情とともに覚醒した。 ふるふるふるふる はっきりしない頭に血をめぐらす。 翡翠の指を見つめてからの記憶が存在しない。 一体ここで何の会話がなされたのか——— あ、あぶなかったわ。あの攻撃(?)があと10秒でも続いていたら自白させられていたかもしれない。 恐るべし洗脳探偵翡翠。 今度こそ本当に諦めたのか、翡翠は赤ん坊の下へ向かうのであった。 … 秋葉の心の中の動揺をよそに、翡翠は赤ん坊に事情聴取を行っている。 「だあだう、だう」 「ふんふん、なるほど。」 翡翠は赤ん坊と意思疎通が出来ているようだった。 「分かりました、そうだったのですか。」 「秋葉さま、姉さんは見てはいけないものを見てしまったがためにこうなってしまったと言っています。」 「なんであんな会話で意思疎通が出来るのよ!」 秋葉の疑問ももっともである。 「見てはいけないものはなんだったのか、そして後頭部を何者かに一撃されて死亡(昏倒)している姉さん。これらの事実は全て。あることを物語っています。」 翡翠は秋葉のツッコミも構わず続ける。 「あること——って?」 「それは何者かが、ある目的を持って、秋葉さまのもっていらっしゃるモーニングスターで、姉の頭を一撃したということです。」 翡翠は、居間に入って10秒で分かりそうな結論に、ようやく達した。 洗脳探偵翡翠は、推理するためのマシーンと化すが、その論理回路はあまりできがよくなかったようだ。 「秋葉さま、そのモーニングスターをお渡しいただけますか。念のため指紋を取りますので。秋葉さま以外の指紋が検出されれば、その人が犯人です。」 犯人の指紋なぞ検出されるわけが無い。秋葉以外触っていないのだから。 このまま指紋検出なんてされたら、秋葉のやったことが明るみに出てしまう。なんとしても防がなければ。 「そ、そうね。」 秋葉は翡翠にモーニングスターを渡す振りをする。と、秋葉は体制を崩しモーニングスターを投げ出してしまう。 ぶおん がっしゃーーん モーニングスターはとても体勢を崩してほうり落としたとは思えないくらい勢い良く一直線に窓を割り外にでてしまった。 そのままひゅんひゅんひゅんと回りつづけ、星となって消えていく。 ばこーーーん かぁーーーーーーー 遠くの方で、何か硬いものがぶつかる音と、カラスのようなものの鳴き声がした…ような気がする。 「あ、あらいけない、手が滑っちゃったわ。」 「…秋葉さま、お気をつけください。居間の絨毯は滑りやすいですから。」 どこをどう触れれば、居間の絨毯が滑りやすいのか。 そんなことを秋葉は思ったが、それを言うとヤブヘビなので黙っていた。 「…しょうがありません。唯一の証拠であったモーニングスターがなくなってしまったからには、推理をもっと深める必要があります。」 「そ、そうね、それもしょうがないものね。」 「そもそも姉さんが一撃される理由はなんだったのか。」 翡翠は顎に手をやり、遠くを見つめる視線でぐるぐる居間の中を歩き回る。 ぎゅむ 「ぐえ」 翡翠は歩いている最中、倒れている姉の身体を踏んづける。 どうやら洗脳探偵翡翠は、一旦推理に入ると、周りのことが目に入らないようだ。 気づかずにそのまま踏み越えていく。 「もっともよく考えられるのが、口封じです。」 「ぐえ」 一周してまた踏んづける。 「つまり、姉さんは何か見てはいけないもの、知ってはいけないものを知ってしまったがために殺されてしまった(倒れている)可能性があります。」 当たらずとも遠からず。というか非常に近い。 「うう、そ、そうなの?」 「はい、犯人はそれで口封じのために姉さんを殺した(一撃した)のです」 「もう一度、そのときの状況をアインシュタインに聞きましょう。」 翡翠は赤ん坊の目の前にたつと、再び事情聴取をはじめる。 「まずい、まずいわ。」 秋葉は焦っていた。翡翠は赤ん坊と意思疎通が出来るらしい。このまま翡翠と赤ん坊をしゃべらせておくと、秋葉のやった犯罪が明らかになってしまう。 ———殺るしかない——— 秋葉はそう決心し、そっと翡翠の背後に立った。 「だあだう、ばぶ」 「ふんふん、えっ、秋葉さまが貴方に乳をあげ———」 ぽぐっ 「きゅう」 翡翠も、終わりまで真実を知ることなく、昏倒してしまった。 「まったく、はじめからこうすればよかったわ。」 秋葉はぱんぱんと手をはたいた。 「さて、分かっているとは思うけれど———」 秋葉はちら、と赤ん坊を振り返る。 びくくっ 一連の事件の唯一の生き証人(二人とも倒れているだけ)である赤ん坊は、恐怖に身震いした。 「このことを兄さんに漏らしたりしたら、承知しないわよ?」 秋葉はこれ以上ないって位の笑顔で。 赤ん坊はかくかくとうなずいた。いや頷くしかなかった。 「そう、いい子ね。」 かくして秋葉のだれにも知られちゃいけない秘密は闇に葬り去られるのであった。 ————— 「——い、翡翠、こんなとこで寝てないで起きなさいったら。ほら琥珀も。」 秋葉さまの呼ぶ声。起きなければいけません。 「うう……ん。」 まず翡翠が、つづけて琥珀が起き上がる。 「うう、ん…、なにか夢を見ていたような…」 「うう、後頭部がイタイ。」 琥珀は不思議そうに自分の頭をなでた。勿論秋葉はそ知らぬ振りだ。 不自然にカーテンの閉められている窓が一つあったが、意識が朦朧としている翡翠と琥珀はそれを疑問に思わなかった。 「あれ、なんで私は、こんな所で寝ているのでしょう??」 琥珀はこの数分の出来事の記憶をなくしているようだった。秋葉心の中でガッツポーズ。 「わ、私も、仕事に戻らないといけません…。」 翡翠の探偵スイッチもヒューズが飛んだようだ。いつもの状態に戻っている。 かくして、遠野家のささやかな日常が過ぎてゆくのだった。 ———————————————————————— かちゃ…ぱたん。 翡翠が、本日何度目か、志貴の部屋を訪れる。 今日も、志貴さまは寝起きがよくない。 もう四度目になる、一時間おきに一度ずつ、四度目。 これまでの三度は、志貴さまは全く起きる気配が無かった。 未だに私は、彫像のように眠る志貴さまに見とれてを強引に起こすことが出来ない。 だけど、四回目の起床は、これまでと様子が違っていた。 「う…うぁ…や…めろ……」 真っ白な顔に赤みが差し、起きる直前の状態だったが、苦悶の表情をしている。 それだけでなく、寝汗もびっしょりかいているようだ。 「志貴…さま?」 翡翠は志貴に近づく。 ————— 「ううぁぁぁぁぁぁぁぁあああああぁぁぁぁぁぁぁああ!!」 俺は叫んだ。 「っ!志貴さま!どうされたのですか!志貴さま!」 体が揺り動かされる感触と共に、急速に俺の意識が覚醒する。 はぁー、はぁー、はぁー 息が荒い。心臓もバクバク言っている。 夢? アレは夢だったのか? 俺は心底見たくない夢を見てしまったのか。 「志貴さま、どうかされたのですか。」 翡翠が、心配そうに声をかけてくる。 俺は、翡翠を見上げようとした刹那、 『———志貴さまが、切リ落とされたのでは、ありませんか———』 「っ!」 夢で見た光景がまざまざと脳裏に浮かんできた。 右腕の無い翡翠。 俺が、死の線をなぞり、切り落とした。 そう、翡翠は、告げたのだ。 ベットは、夢のとおりに割れてしまった。 なら、翡翠も——— いや、翡翠だけじゃない、琥珀も、秋葉も——— 腕の無い翡翠、脚の無い琥珀、そして、最早生者と呼べない秋葉。 俺が、切った。 「やめろ!」 見てしまえば、あの夢が現実になってしまう気がした。 見たくない、あんな夢が現実になって欲しくない。 見たくない!見たくない!見たくない!! 「——志貴さま?」 翡翠は明らかに普通でない俺を気遣い声をかける。 が、俺はとてもそれに応えられる精神状態ではなかった。 「やめろ!翡翠、俺に近づくな!前に立つな!俺に姿を見せないでくれ!」 「……………」 翡翠は暫く無言だった。 俺の精神状態が通常と異なると感じたようだ。 「かしこまりました。それでは退室させていただきます。」 今の俺に話し掛けても解決にならないと思ったのか、素直に部屋を出る。 かちゃ……ぱたん。 翡翠は部屋から出て行った。 俺は、翡翠が部屋を出るまで、じっと眼を閉じて俯いていた。 ツギハギだらけの世界。 色の無い、輪郭と線と点だけの世界。 俺の眼が、あんな世界を見せるというのなら——— ———おれは、こんな眼は、要らない——— 俺は、この瞬間、自分の眼を完全に否定した。 眼を、開ける、べきなのか。 かなりの間、悩んでいた。 翡翠が部屋を去ってからも、俺は未だに眼を開けることが出来なかった。 眼を開けたときに、あの夢が現実になるかもしれないという恐怖があった。 だけど、眼を閉じていると、三人の様子が繰り返し俺を責め苛む。 ———今なら、誰もいない——— 俺は、徐々に瞑っていた瞼を上げる。 闇。 眼を開けた。 脳裏に浮かんでいた秋葉達が掻き消えたことからも、それが判る。 闇。 しかし、世界は未だに闇に閉ざされたままだった。 俺は 視力を 無くしてしまった。 ————— それから。 まず再び様子を見に来た翡翠が俺の異常に気づき、秋葉たちに知らせる。 秋葉は直ちに俺の主治医を呼び、眼どころか全身くまなく診断させた。 しかし、何も、分からなかった。 原因不明。 医者の出した結論が、それだった。 眼球にも、視神経にも、異常はない。 ただ、見えないだけ。 一つだけ安心できることがあった。 翡翠も琥珀も、まして秋葉も、身体に異常はなかったということだ。 手探りで触れた琥珀の左足や秋葉の頭はちゃんと存在していた。勿論翡翠の右腕もあった。 視力を無くした不安も強かったが、それよりも夢で見た光景が現実になることの方が怖かった。 俺は安堵したが、やはり一抹の不安は隠せなかった。 自分が見たくないと思っただけで視力をなくすとは思えなかったが、それでも、原因としてはそれしか考えられない。 だけど、それを医者に話したら、なんでそう思ったかということも話さなければならなくなる。 あんな夢を見ること自体が異常だ。 俺は、夢で見た内容は何一つとして語らなかった。 こんこん、こん 遠慮がちのノックが叩かれる。 「志貴さま、入ってよろしいですか。」 翡翠だった。 「———ああ。」 俺はベットに寝たまま応える。 かちゃ…ぱたん。 「失礼します。」 翡翠は何かを持ってきたようだ。ぱちゃぱちゃと何かを浸す音、続いて、ぎゅぅぅと絞る音がした。 「志貴さま、失礼します。」 そういうと翡翠は何か冷たいものを俺の眼にかぶせた。 「翡翠…これは。」 「はい、風邪ではありませんが、冷やせば少しはよくなるかもしれないと思いまして…。」 「ああ、ありがとう。」 「礼を言う必要はありません。私がやりたくてやっていることですから。」 「だからなおさらだよ。俺なんかのために、そこまで気を使う必要はないのに。」 「いいえ、志貴さまの方こそ。」 「あははは」 「ふふ」 俺たちは、どちらからともなく笑いあう。 「そういえば、まだ言ってませんでした。」 「———何を?」 「おはようございます、志貴さま。」 「——ああ、おはよう、翡翠。」 こんなときでも挨拶を忘れない、いや、こんなときだからこそ挨拶を掛けてくれる翡翠の心遣いに、俺はやっと、ここが夢ではなく現実の世界だなと認識できた気がした。 やっと夢から覚めた。 俺は夢から覚められたことに安堵し、大きく息を吐いた。 瞼と、眼に当てられたタオル越しに世界を感じる。 今、もし眼が見えたなら。 目に入るのは、輪郭とツギハギの世界。 翡翠の身体中に、線が走って見える。 落ち着いてはいるものの、これも一時的に過ぎない。 心の中では、まだ見たくないという恐怖が何処かにあった。 ずきり こめかみが痛む。 頭がはっきりしない。俺はぶるぶると頭を振り、頭に血を送る。 …やめよう、こんな想像。 目が見えても見えてなくても、何も変わらない。 翡翠は、無言で俺の傍についていてくれている。 その心遣いが、今はありがたかった。 安心したせいだろうか。俺は、何時の間にか、うとうとし始めていた。 ————— 「—貴、志貴ってば、志ーー貴ーー〜」 誰かが俺を呼ぶ声がする。 とんっ 軽やかに窓辺リに降り立つ音。 そんなことをする奴は一人しか知らない。 アルクェイドだ。 ここは、夢だろうか。 今までの経験から、一瞬、そう考えてしまう。 しかし、あの夢独特の不快感もなく、また風に乗ってアルクェイドのかすかな匂いもしたので、ここが現実だとわかった。 翡翠は何時の間にかいなくなっていた。 俺が眠ってしまったため、安心して自分の仕事を再開したのだろう。 「アルクェイドか?」 「そうだよ。さっきから呼んでるのに、志貴、全然起きてくる気配が無いんだもん。」 「どうしたんだ。」 「うーん、どうもしないけど、なんとなく志貴に会いたくなって。」 いつもの状態じゃなかったけれど、俺はアルクェイドのその能天気さに救われた気がした。 「そうだアルクェイド。お前確か、夢魔を使っているって言ってたよな。」 「?ああ、レンのこと。うん、レンはわたしの使い魔だけど、それがどうしたの?」 「教えてくれ。ここんとこ夢見が悪いんだ。」 アルクェイドには言わないつもりだったが、この際背に腹は替えられない。 「…話してみて。」 アルクェイドは俺のただならぬ状態を察したようだ。 真剣な声で先を促す。 「ええっと…まず…何から話せばいいかわかんないけど…」 「何でもいいわ。以前志貴も言ったじゃない。『今の状況を片っ端から口にしたら。』って。わたしも状況がわからないけれど、それなりに何とか話をつかんでみるから。」 「分かった。」 「そう、じゃ、続けて。」 「俺は、眼が見えなくなった。」 俺はそう切り出した。 「ええ、さっきから志貴、全然見当違いの方ばかりみてるんだもん。すぐにわかったわ。」 「なら話が早い。…原因は、はっきりしてる。多分、夢。夢…を見るんだ。」 「夢?」 「ああ、始まりは…たしか、数日前、見たことも無い風景の中で、見たことも無い少女と会ったのがきっかけだ。」 時間はたっぷりある。俺はそもそもの始まりから話し始めることにした。 「草原、山、城、そして満月。城は中世ヨーロッパにあるようなもので、…そうだな、アルクェイドの故郷の話を聞いて俺が思い浮かべたのと似ているかな。それと、城の後ろに湖があって、俺はそこで知らない少女と出会った。」 「ふんふん」 「その少女が言うんだ。俺のことを、『ロア』って。」 「…そうね。確かに貴方は『志貴』だけど、魂は『ロア』のものであるとも言えるわ。ロアが転生した先の人間の魂はロアのものになるわ。志貴、貴方は子供のときにシキに命を奪われた。そして、シキの命が殺されたときに、ロアは貴方の命を使って覚醒したわ。この間ロアと戦って命を取り戻したのだから、その少女の表現は間違いではないわ。」 アルクェイドはあっけらかんとしたものだ。 吸血鬼にとっての命の感覚って、そんなものなのだろうか。 「次に覚えてる夢が、ネロと戦った時のだ。」 俺は、続ける。 「俺と——アルクェイドが、あのホテルでネロと戦ってるシーンだ。俺とアルクェイドがホテルのルームで話していてネロの使い魔に見つかる。俺は部屋に残り———そう、現実では廊下に出たのに、夢では部屋に残ったんだ———次々に襲ってくるネロの使い魔達と戦うんだ。…何十匹と殺して…最後は、大蛇だった。部屋に入るなりベットに潜り込んだ大蛇を追い出すために、俺はベットそのものを真っ二つに両断した。……そうそう、おれは夢の世界でも死の線が見えてるんだ。ベット全体としての『死の線』を俺は両断した。」 アルクェイドは俺のまとまりの無い話をじっと我慢強く聞いている。 この後はアルクェイドがネロに吸収される夢だが、話の主張筋ではないしここは伏せておいた方がいいかもしれない。 「俺は、眼を覚ました。自分の部屋だった。夢を見ていたのに、夢だったはずなのに、俺が夢の中で両断したように、俺の寝ていたベットが真っ二つに裂けた。布団も、スプリングも、支柱ごと、全部。」 「………………」 アルクェイドは無言だ。 気配からすると、そう、厳しい目つきをしているのではないか。 「今日、見た夢は、この家の中だった。どれもこれも夢特有の非現実的な感じがあるんだけど、それでも俺はそれが現実のことのように感じるんだ。俺はそこで、………そこでも眼鏡を外していた。翡翠と琥珀と秋葉がいて、俺は、それぞれと………それぞれとっ———」 言葉にするたびに、あの夢の光景がまざまざと蘇ってくる。 腕を切り飛ばされて、平然としている翡翠。 脚が無くても、笑っていた琥珀。 そして———顔半分が切られた、秋葉。 これをどう説明すればいいのか。 「ふん、大体分かったわ。その時見た夢のショックで、眼が見えなくなったのね。」 「…ああ、多分、そうだ。」 アルクェイドは、暫く間を置いて話し出した。 どうやら言葉を選んでいるようだ。 「結論から言えば、それらの夢、間違いなく夢魔の仕業ね。」 「夢魔は人に夢を見せるわ。そのときに夢に選ばれるのは、本人の潜在意識下で眠っている様々なものよ。最初の夢の城にしてもそう、志貴、貴方の潜在意識で持っていたイメージが使われたのね。だけど城が選ばれた…いえ、その城を含めた風景が選ばれたのは、夢魔の意思が関わってるかもしれないわ。」 「夢魔の意思?」 「夢魔は、夢の世界をほぼ完全に思い通りに出来るの。夢の物語を演出するとか、もしくは、誰かの夢と繋げるとか。」 「誰かの…夢。」 「そう、。だけど夢魔が二人以上の夢をつなげる時、きっかけとなるものが無いといけないわ。例えば同じ風景を見ているとか。その場合、相手も同じ夢の世界の風景を潜在意識に持っていないといけないけれどね。」 「そういえば、夢の中で何かが言ってた。たしか『感覚の共有』とかって。」 「そうね。その風景に登場してきた少女は、まず間違いなく実在するわ。夢魔は、その少女と貴方を夢の世界で引き合わせたのよ。」 あの少女が実在する。 だとすると、あの少女は——— 何か、忘れている、気がする。 あの少女は、俺に対して、何か負の感情を持たなかったか——— 俺がそんなことを考えているうちに、アルクェイドは続ける。 「志貴、貴方の言っていた城とその周辺の風景のイメージは、以前わたしが語ったものよね。だとすると、同じイメージを持っているその少女というのも、わたしに関係する人物なのかもしれないわ。」 「一番目の夢に関しては、こんなとこかしら。判っているのは、少女が実在するってことと、夢魔は、志貴とその少女を引き合わせたということ、それに、その少女はわたしにも関係するかもしれない、ということね。」 「二番目の夢に関してだけど、志貴が夢の中で切ったベットが、現実でも切れたってことよね。これが事実だとすると、その夢魔はとんでもない力の持ち主だわ。」 「とんでもない力?」 「そう。まずその夢魔は、夢の世界において志貴固有の能力を再現したわ。これは潜在意識にある記憶じゃ済まされない、現実の能力よ。夢で自分の能力を”見る”こととはわけが違うわ。そのうえ更に、夢の世界での志貴の行動をそのまま現実世界に反映させるなんて、並大抵の事じゃない。」 「それじゃあ、もし———」 「——もし?」 「もし、夢の世界で、誰か人間を切ったりしたら…。」 「うーん、それは場合によりけりね。最初の夢のように、実在の人物と夢の感覚を共有していた場合、夢の相手を切り刻めば、現実に相手も切り刻まれるかもしれないわ。だけど、そうでない場合は、風景と一緒。志貴の潜在意識の中にある記憶から夢魔が見せている動画だと思えばいいわ。勿論それを切っても、ただ夢を構成するものがなくなるだけ。もしかしたら潜在意識の記憶まで死ぬ——つまり無くなる——かもしれないけど、たいしたことじゃないわ。」 そうか、誰かと夢の感覚を共有していなければ、相手を傷つけることも無いのか。 「これは、『想念の結界』と呼ばれているわ。あのブルーがこの夢魔を使役したがっていたらしいけど、こんな身近にいたとは思わなかったわね。」 「『想念の結界』……」 「そう、何代か前のロアの使い魔の夢魔がその能力を持っていたわ。一言で言えば、夢を現実化する能力。もともと夢魔は夢に干渉して現実に多少なりとも影響を及ぼすことが出来るわ。例えばエッチな夢を見させて、夢精をさせるとかね。けど、この夢魔の能力は桁が違っていたわ。夢だけでなく、その人が強く願ったことまで現実化していた。」 「それじゃあ、巨万の富とかを強く願えば、それが現実になった、というのか。」 「もちろん、その能力にも限界があったわ。夢魔は、あくまでもその夢を見せる当人が出来る範囲での現実化しか出来なかったようね。」 それなら、誰とも共有していない夢で強く他人を殺そうと想っても最悪の悲劇はされられるわけだ。 俺はほっとする。 「でも、志貴の場合、その夢魔の能力は致命的とも言えるわ。志貴は、あらゆるものを殺すことの出来る眼を持っている。夢魔はその能力を借りて、夢の世界で志貴に誰かを殺させることもできるわ。まあ実際に行動するのは志貴だから、志貴が自分の意志で切らなければ何もおこらないけれど。」 「なんとかそれを止めることは出来ないのか。」 「だから、志貴自身が行動しなければいいわ。夢魔の能力は、夢の世界に志貴の能力を持ってくることと、夢の世界での行動——— 即ち志貴の想念———の結果を志貴の能力を”借りて”現実に反映させるだけ。志貴が夢の世界でどう行動するかを操ることは出来ないわ。」 「…夢魔ってのは、どんな姿をしてるんだ?」 「うーん、夢魔は現実世界での肉体を持ってないわ。いわば魂だけの存在。実体を持たないからこそ、夢の世界という現実には存在しない世界を操ることができるのよ。まあ、あえて姿をとるときは、人の姿が多いかしらね。わたしの使い魔も10歳くらいの女の子の姿をとってるし。」 「なんで夢魔が、俺に悪夢を見せようとするんだ?」 「……ふたつ、考えられるわ。一つ目は、夢魔に志貴への害意があった場合。その少女の使い魔で、間接的に少女の害意が夢魔を通して志貴に伝わった、というのもあるわね。それと二つ目が、夢魔が志貴のその能力に眼を付け、その力を利用して何かさせようという場合。」 「俺の、能力を、利用する…。」 俺の能力なんて、誰かを殺すことにしか役に立たない。それよりかは、少女ないし夢魔が俺に殺意を持っていると考えた方が信憑性があった。 実際に、夢での展開もそうだったような気がする。 だが、殺される以上は、応戦しなければならない。 だけど俺は、殺すのが恐かった。 まだ善悪の区別もままならない頃からモノを壊す線が視え、もっとも多感な時期を病院と貧血で育った。 お前はモノを壊す線が見えるからと、必要以上に友達を遠ざける。 泣きながら歩んできた線と点の地獄。 見たものでなければ分かりはすまい。経験したものでなければどんな想像も及びもすまい。 ニンゲンが、こんなにも、壊れやすいものだったなんて。 世界が、こんなにもあやふやなものの上に成り立っているなんて。 自分は、切るために存在するようで、自分という存在を根本から疑いたくなってしまう。 どんなに俺自身がどんなにこの眼を拒否しようとも、相手の方からこの眼を求めてやってくるというのか——— 今の俺に、殺伐とした殺し合いの世界以外の生き方は許されないというのか——— 「———志貴———。」 アルクェイドが、俺の顔を両掌ではさむ。 少しひんやりとしたその両手が、熱を持った頬に心地よかった。 「いい?志貴がどんな能力を持っていようとも、それは志貴本人の存在意義を貶める物じゃないわ。確かに貴方の能力は並外れて『死』を意識させるものだけど、それを実際に行使するかしないかは貴方の意思に掛かっている。貴方が殺しを望まないのだったら、貴方の能力は無いも同じ。普通の人間と全く変わらないわ。」 「アルクェイド…」 「何よりわたしは貴方が好き。貴方の居てくれるこの世界が好き。ロアを殺しつづけるだけだったわたしを解放してくれたのは、志貴、貴方じゃない。」 アルクェイドの両親指が俺の瞼を軽く撫でる。その感触が心地よかった。 ちゅっ 唇に、柔かく暖かいものが触れた。 アルクェイドの、唇だった。 「———志貴———。」 唇の感触が離れても、まだアルクェイドの顔が息がかかるくらい近くにあった。 「そんな簡単に悪い方に考えるのはやめて。わたしは、いつでも貴方の傍に居る。貴方が傷ついたら、死んじゃったら、悲しむ人が最低一人は居ること、忘れないで。」 「アルクェイド…、ああ、判ったよ。」 アルクェイドの両手が頬から離れた。 「今夜はいい夢を見させてあげる。安心して。わたしの使い魔が貴方を護るから。」 とん アルクェイドが窓の縁に飛び乗った音。 「今夜は帰るわ。あんまり長居しちゃ妹に悪いしね。」 「アルクェイド、今夜は、ありがとう…」 「いいよー。また今度、面白いところに連れてってね。」 「ああ、わかった。約束だ。」 「ふふふ、約束だよー」 とっ、と音がして、人の気配が部屋から消えた。 程なくして、俺は、数日振りの安らかな眠りに落ちた。 【六日目(木曜日)】 日も差さない、路地裏。 イた。 だケど、ココニハ気配の残り香ガあルだケデ、アいつは居ナイ。 交差点。 居タ。 だけど、こコニは気配の残り香がアるだけで、あイつは居ない。 焦ルコトはない。いツカハ追イつク。 何故なラボクは、追跡者なのだから。 ある豪邸の前。 ———居ル。 ———気配が有ル。 ———見つケタ——— ココにあの人はイる。 ボクは、あノ人ノ命を、開放するンだ。 さあ。 ボクの——狼の狩りの、始まりだ。 ——————————————————————— チチ、チ、チュンチュン 今日も、爽やかな風が朝日を存分に浴びた清浄な空気を運んでくる。 それは、遠野の屋敷の、何気ない日常。 空には雲ひとつ無く、澄み切った青空は、今日も今日とて暑くなることを容易に想像させてくれる。 「———来たわね。」 遠野家の居間に、秋葉、翡翠、琥珀、そしてアルクェイド。 アルクェイドは、今朝早くに再び遠野家を訪問し、秋葉達に全ての事情を話した。 昨日の志貴の様子からも、相手の影響力がかなり強まっていることがわかる。 魔術とは基本的に、相手の情報が多ければ多いほど掛かる度合いも強まる。 だから強まっているということは、相手がこちらの情報をかなりのところまで掴んでる証拠だ。 少女が此処を突き止めるのも恐らくは今日明日中だろう。 ならばその時を見計らって、露払いをしてやればいい——— アルクェイドは、そう考えたのだ。 秋葉達に話したのは、気兼ね無く戦えるようにするためと、万が一を考えてのことだ。 昼間は、真祖の吸血鬼の姫君ともいえど、その能力は格段に弱まる。 志貴は、鎮静剤を打ってあるので、眼を覚ますのも午後になってからだろう。 ———それまでに、全てを終わらせるわ——— 「貴方を屋敷内に入れるのも兄さんが特別な状況にあるからですから。今後は身分を弁えて———」 「ああ、わかってるわ、はいはい。」 「ちょっと!真面目に聞いてるのですか!」 無論真面目に聞いてなどいない。 どうせまた窓から志貴に部屋に行くつもりだしー。 ぜんぜん懲りる気配も見せないアルクェイドであった。 アルクェイドは、わめく秋葉をよそに、居間を出た。 玄関のドアを開けると、そこに、少女が居た。 緑髪、碧眼。 髪と瞳を気にしなければ、ともすれば、どこにでも居そうな、普通の少女だった。 だけど、外見をそのまま信じるわけには行かない。 「通してよ。ボク、この先に用があるんだ。」 そのエメラルド・グリーンの瞳は、有る明確なる決意を秘め、輝く。 少女の左手に、幽かに闇が蠢いた。 「そうはいかないわ。」 アルクェイドは右手を顔面近くに掲げる。 じゃきーーん そんな音が聞こえてきそうなほどに、アルクェイドの爪が、陽の光を反射して輝いた。 「—なら」 少女の闇が、腕を螺旋状に駆け上っていく。 「しょうがない———ね!!」 言うと同時に、少女が向かってきた。 それが、戦闘開始の合図だった。 アルクェイドは、一歩、踏み出す。 彼女の身体が発する鬼気が烈風の如く、少女の身体に吹き付ける。 アルクェイドの威圧感は圧倒的だった。華奢とも言える身体が、不動のものとして何倍も大きく見える。 しかし少女は怯むことなく前に進み出る。緑の髪が風も無いのにたなびき、螺旋状に駆け上った闇が鬼気の放射に立ち向かうかのように、力強く全身に広がる。 「疾っ!」 アルクェイドの爪の一閃。速い。 しかし少女は見を捻り苦も無くこれをかわす。そのまま少女はアルクェイドと擦違った。 白と闇。一瞬、二筋の色が交錯。 白い爪から繰り出される必殺の一撃は、少女の居た空間を薙ぎ払い、地面に深い爪痕を残す。 擦違った少女の、全身を覆った闇が、そこだけ異質な空間を創り上げる。 アルクェイドの一撃で飛び散った床の破片が、少女の頬を裂いた。 暫くは何事も無かったかのように立っていたが、突然、がくっ、と少女の身体が沈んだ。 「…流石だね。かわしきったと思ったのに、その余波だけでもこんなに威力があるんだ。」 「次はこんなものでは済ませないわ。」 「言うね!」 少女は頬を伝う血を拭い、再び突進した。 アルクェイドは突進にあえて逆らわず、後ろ向きに跳んで、次の一撃を横殴りに叩き込む。 その呼吸に合わせ、少女は拳を跳ね上げる。 闇が、まるで小規模の竜巻が発生したかのように、少女の拳を中心に瞬く間に広がった。 ざしゅっ 爪が、闇ごと少女を切り裂く。 しかし、裂けた闇から覗く少女には傷一つ無い。 代わりに、少女の下の地面が裂ける。 ドスッ 少女の拳掌がアルクェイドの腹にめり込んだ。 「かはっ……っ!」 少女の腕を伝い、闇がぞわぞわとアルクェイドの身体にも広がる。 闇に混じり、血臭が漂った。 アルクェイドの腹と地面に、赤い色がじわじわと広がる。 少女は、余った手をアルクェイドの顔面に翳した。 キィィィィィィィィィン 掌と顔面との間に、不可思議な協和音が響く。 「くっ!」 アルクェイドは少女を振り払うように爪閃を繰り出す。 少女は腹にめり込んだ拳を引き抜き、素早く後辞さる。 アルクェイドの反撃は、又しても闇に阻まれた。少女に傷一つつけられない。 離れた後、何をするでもなく少女は5メートル程の間隔を空けて佇んでいる。 少女を覆っていた闇は、掻き消すように無くなっていた。 今なら少女を護る物は何も無い。 腹に深手を負うものの、その不死性を以って徐々に傷は回復しつつあった。 手加減をするつもりだったが、吸血鬼としての本能が、少女への破壊衝動として顕現する。 アルクェイドの瞳が黄金化し、漂う鬼気が禍々しい物へと変貌を遂げた。 ———能! ヴンッ アルクェイドの前方の空間が不自然に歪む。 それは少女を巻き込み、一気に凝集した。 瞬間。 少女を中心として、直径2メートル程が消滅する。 「何処を見てるんだい?」 「そんなっ!」 必殺の一撃だった筈だ。 完全に少女をその技の影響範囲に押し込めたはずなのに。 見れば、少女は先程と変わらぬ様子でこちらを睥睨している。 少女には多少なりともダメージを負った様子すら無かった。 と ガンッ  ザシュッ 突然、横からの衝撃。 続いて、身体のあちこちを切り裂かれる激痛。 アルクェイドの右腕が、切り飛ばされた。 続いて、右足にも裂傷。細かい傷は数え切れない。 慌てて横を見るが、そこには誰も居ない。 少女は相変わらず前方で佇んでるだけだ。 いや、 少女は見を翻し、屋敷へと向かっている。 「待ちなさい!」 ヴンッ アルクェイドは再び異能を集約させる。 先程よりもかなり大きい。倍以上の大きさの空間が、異なる空間に閉じ込められた。 今度こそ、少女を捕らえたはずだ。 空間が、一気に凝集する。 空間が、消滅した。 確かに、少女もろとも瞬間にそれは消滅したはずだった。 しかし 「ボクはそんなとこに居やしないっ!」 少女の、有り得ない方向よりの攻撃。 再びアルクェイドの全身が刻まれた。 「ガハッ!」 アルクェイドの口から血が噴き出す。 体勢を崩したところに、再び、視えない攻撃。 残った左腕で闇雲に薙ぎ払うが、視えない敵相手にそれは全くといっていい程効果が無かった。 数刻後。 アルクェイドは全身を切り刻まれ、最早立っているのがやっとの状態だった。 全身から滴り落ちる血とは対照的に、アルクェイドの顔が死人のように青白い。 全身を廻る血液の絶対量が不足している証だ。 少女の気配は先程から異質へと変貌している。 例えるなら、そう。闇から、より一層の漆黒へ。 暗く膿のような気配が、濃密に漂いはじめている。 「暫く、寝てテモらウ。」 そう少女が言った途端、アルクェイドの意識に闇が混ざった。 たちまちのうちに、それは意識の大部分を覆う。 ———数瞬後、アルクェイドは意識を喪っていた。 少女は切り飛ばした右腕を肩にくっつけてやってから、再び屋敷に向かって歩き始める。 ふと、何を思ったか足を留めて振り返った。 暫くの間、アルクェイドを見つめている。 その碧の瞳は、やや悲しみを帯びているように見えるが、相変わらず強い決意を秘めている。 少女は、アルクェイドに一瞥をくれると、再び屋敷に向かって歩き出した。 奇しくも、それは先程までアルクェイドが少女を見ていた場所だった。 「———琥珀、行くわよ。」 「———はい。」 秋葉は、気配で、アルクェイドが敗れたことが判っていた。 「次は、わたしの番ね。あんな少女に遅れは取らないわよ。翡翠、あなたは兄さんの所に残ってなさい。わたしと琥珀で決着をつけるわ。」 「わかりました。」 少女は、玄関の扉を開け、ロビーに入ってきた。 ロビーでは、秋葉と琥珀が待っていた。 秋葉の髪は最初から真紅に染まっていた。 「琥珀、全力で行くわよ!」 「ご随意に。」 しゅるるるるるる ロビーを覆う、秋葉の意識の髪——檻髪。 逃げ場の無い屋敷内でこそ、秋葉の能力も真価を発揮する。 瞬く間に秋葉と琥珀、そして少女は秋葉の不可視の髪に閉じ込められた。 「またボクの邪魔をするというの?」 少女はその瞳に憎悪を混ぜる。 「そうね。兄さんを害する存在は、何であろうと通すわけには行かないわ。」 此方も少女を睨み返す。 「許…せない。」 再び、少女の拳から闇が這い上がる。 「許せないならどうすると言うのかしら。」 絶対的有利に立ったという心理的余裕から、秋葉は髪を拳で掻き揚げながら尋ねる。 「意地でも通る!!」 言うなり、少女は秋葉に向かって突進した。 闇は、再び増大する。 「琥珀、下がって!」 秋葉は、意識の髪を少女に向けて放つ。 秋葉の視界に居る限り、何者をもこれから逃げることは適わない。 しかも予め、何処にも逃げられないように、周囲を覆うようにも檻髪を仕掛けてある。 絶対的な檻。意識の届く速さで、この檻は少女を覆い尽くした。 まだ闇に覆われ切っていない右腕に檻髪が巻きついた瞬間、少女の右腕から活力が根こそぎ略奪される。 だが、闇が少女の腕にまで到達した瞬間、檻髪がぱらぱらと解けた。 他の部位に巻きついたはずの髪も、その尽くが何も無い空間を掴んだかのように空を切っていた。 「そんなっ!」 「今度はボクから行くよ!」 少女はもう秋葉の目前まで迫っている。 ひゅん 驚愕に呆ける間も無く、少女の左手刀が秋葉の首筋に迫る。 「くっ。」 又しても急速に展開される檻髪。しかし今度は秋葉の首筋を護るように隙間無く展開される。 ばひゅう 闇と檻髪とがぶつかり合い、互いに致命の傷を負わせることなく消滅した。 だが、秋葉の髪は完全に消滅はせず、再び勢力を増大し少女の残された左腕に巻きつこうとする。 「くっ。」 今度は少女がその言葉を発した。 先程髪に巻きつかれたとき、腕の精力が根こそぎ無くなった。今はまだ完全には回復してない。 攻撃を諦め、一旦間合いを開ける。 秋葉は、追い討ちをかけるように無数の檻髪を飛ばした。 しかし、少女の闇が、横殴りの雨のように無数に飛来する檻髪の尽くを無力化する。 膠着状態だった。 互いに、相手に致命の一撃を負わせられない。 眼には見得ざる檻髪を、少女は闇と勘を頼りに驚くべき正確さで無力化する。 だが反対に、少女の攻撃のことごとくが、秋葉の檻髪に阻まれ攻撃できない。 暫くの間、その不毛なやり取りが続いただろうか。 膠着状態にもついに終りが訪れた。 少女が、琥珀の存在に気がついたのだ。 先程から、攻撃も守りもすべて長い髪の方が行っている。 短い髪の方は、ただ何をするでもなく長い髪の女の傍に居るだけ。 なら、そこに何らかの理由があるはずだ。 少女は無言のまま、自分の掌に視線を落とした。 右腕は…未だに動かない。あともう少し。 しかし左腕には、闇が螺旋状に腕に駆け上っている。 「どうしたの、あの程度で終わりかしら?」 少女はそれに応えず、ゆっくりと歩み寄る。 少女は意を決し、再び闇を増大させる。 もう何度目か、再び少女の全身が闇に覆い尽くされた。 「行け!」 秋葉の檻髪が少女の全身に襲い掛かる。 だが、そのどれもが虚しく闇を掴むばかり。 「くぉぉぉぉぉぉ!」 闇を伴う少女の抜き手。秋葉は素早く檻髪の防壁で隙間無く腹部を蔽う。 少女が突然止まる。フェイント! 少女は秋葉を飛び越えると、すぐ後ろに控えていた琥珀の眼前に降り立つ。 「ひょえっ、わたしですか!」 「しまった!」 「遅い!」 ひゅっ  とんっ 少女の、琥珀の首筋への当て身の一撃。 「はうー、わたしは戦いそのものは苦手です〜、所詮わたしは脇役〜」 ワケのわからない謎の言葉を残し、琥珀の身体が崩れ落ちる。 少女は、崩れ落ちる琥珀を片手で支えた。 同時に、秋葉達三人を蔽っていた檻髪が、力の供給源を失い掻き消すように消滅した。 だが少女は攻撃の手を緩めない。 振り返り、秋葉目掛け飛び掛る。 ごんっ 「あいたっ」 当然琥珀を支えていた手を離したため、琥珀は顔面から床にぶつかった。 琥珀、そのまま動かずリタイヤ。 応戦して繰り出される檻髪。 秋葉の檻髪は、先程までとは別人のように威力が無い。 量も、そして速さも。 少女は闇で檻髪を薙ぎ払い、秋葉の顔面に手を翳す。 闇が忽然と消え、少女の気配か別人のそれへと換わる。 「夢ヲ見るンダ!」 闇が、今度は秋葉の意識に混ざった——— ぼふっ 意識の中に出現する志貴。 「おはよう秋葉。」 今は琥珀も翡翠も居ない。志貴のその笑顔と挨拶は、秋葉の為だけにあった。 ああ、兄さん今日も素敵。 だけど私はお嬢様。 望まずとも父に施された教育のせいで、骨の髄までお嬢様が染み込んでいるんです。 だから返事はいつもそっけない。 拳で髪をかきあげる、所謂一つのお嬢様かきあげポーズ。 「おはようございます、兄さん。今日は何時にも増して余裕がある様子ですが、学校はいいのですか。」 素直になれない自分がもどかしいです、兄さん。 「いいんだ。学校よりも、大切なことが出来たから。」 「大切なこと———?」 「秋葉、さ。」 言葉が染み渡るまで数秒。更に意味を理解するまでに数秒。 ぼんっ 一瞬にして顔面が真っ赤に染まる。 「あ、あ、あ、その、わた、わた、わたし———」 志貴はゆっくり歩いてくる。 「———秋葉———」 「兄さん、だ、駄目です、わ、私達は兄妹———」 「血は繋がってないじゃないか。」 最後まで言わせず、志貴は秋葉の言葉を遮る。 「わ、わた、わたし、兄さんをそんな目で見たこと無いです———。」 充分見てたけど。 「それじゃ、これから見てくれればいい。」 ぽん 志貴の両手が、秋葉の両肩に置かれる。 「わ、わたし、これから学校に———」 「駄———目。」 志貴の顔が迫る。 眼鏡越しに見える、兄さんの瞳。 ライト・ブルーのそれは、どんな宝石よりも綺麗で、何物にも替えがたい、たからもの。 「秋葉———」 瞼が、勝手に閉じてしまう。 「———愛してる。」 鼻頭が当たらないように、首が自然にやや傾く。 軽く、触れるだけの、キス。 「ん———」 それでも、触れた先から、全身に痺れが広がった。 たかがキス一つで、ここまで気持ちがいいなんて。 唇は触れたまま、志貴の手は肩を離れ、秋葉を抱きしめ——— 「んふふふ、やだ、兄さんそんなとこ触っちゃ駄目ですよー。」 秋葉は、本人にとってはかなり幸せな眠りに、陥っていた。 二階の廊下に、メイド服を着た少女が居た。 踵を揃え、直立不動の姿勢で、箒を両手で水平に構えている。 「此処は、通しません。」 達人ともなると、相手のちょっとした動き、そして雰囲気から、相手の実力が判る。 いわばこれも本能と言うべきものだろうか。 その本能が告げていた。 このメイド姿の少女は、大して強くない、と。 「悪いけど、通らせてもらうよ。」 緑髪の少女は応える。 「通しません。」 翡翠は、箒を薙刀のように脇に立てて持つ。 少女は、翡翠を見て、魔力を持っていない事を見抜いていた。 箒にも何ら魔術的処理は施されていない。 当たっても、それこそたいしたダメージにもならないだろう。 だから少女は、歩みを止めることも無く、悠然と翡翠へと向かっていった。 「えい」 箒が振り下ろされる。 少女は、避けるでもなく、ただ振り下ろされる箒を見ていた。 ばしっ 箒が少女の顔面にヒットする。 思ったとおり、痛くも痒くもない。 と ばふっ  もわもわもわ 箒から、粉末状のものが飛び出した。 それが目に入った瞬間——— 「いっっっっ、てへえぇぇぇぇぇぇぇえ!!!がはげほごほっ!!!ぶひゅんへくしっ!!」 ごろごろごろ ごろごろごろ 少女がのたうちまわる。粉末状の煙の成分については今更言う必要も無いだろう。 翡翠の箒には、『お邪魔虫駆除箒翡翠仕様六零(ロクマル)式・改』と書かれてあった——— その時。 ひゅうう 風向きが、変わった。 翡翠にとって追い風だった、廊下を吹き抜ける風が反転する。 黒い煙は、今度は翡翠へとその毒々しい牙を剥く。 だが翡翠は冷静だ。 「前回と同じテツは踏みません!」 何故か翡翠の後ろに控えられていた扇風機。 通常の家庭の物より一回り大きく、その分威力も大きいだろう事が伺える。 翡翠は、ささっと扇風機の後ろに回り込み、”強”のスイッチを入れ、致死の煙を迎撃した。 翡翠の方へと向かうかと思われた煙が、再び少女を襲う。 ごろごろごろ ごろごろごろ ごん 勢いあまって、少女が、壁の柱、出っ張り部分に脛をぶつける。 「〜〜〜〜〜っっ!!!」 少女の声にならない悲鳴。 翡翠はその様子を見て、思わず顔を顰める。 きっと煙の成分を研究するにあたり、同じように煙を浴び、同じようにのたうちまわってイタイところをぶつけた経験があるに違いない。 数刻後——— 翡翠は目と鼻と唇を真っ赤に腫らした少女と相対していた。 唇もが腫れている辺り、煙の成分もより凶悪なものに入れ替わっていたのかもしれない。 「なかなかやるね、キミ。」 目と鼻と唇を目一杯腫らしながらも、そこはそれ、痩せ我慢でニヤリと不敵に笑う。 だが目と鼻と唇が目一杯腫れているので、とっても情けなかったりする。 「まだ諦めては、貰えませんか。」 「当たり前だよ!」 当たり前である。 これから人を殺そうと言うのに、こんなアホらしい技で諦めたら立つ瀬が無い。 「ならば、次はこれです。」 翡翠、人差し指を立てる。 「むむっ。」 流石に箒で懲りたのか、少女は暫く様子を見ようと距離を取った。 翡翠、真剣な表情で、指を螺旋に回転させる。 少女、真剣な表情で、用心深く指を注視する。 ぐーるぐる、ぐるぐる 何もおこらない。 だがこのメイドの少女は違った意味でキケンだ。 少女、さらに真剣に指を注視する。 ぐるぐ〜るぐるぐ〜る 「むむむむっ。」 翡翠の指が渦を巻いている。 渦が渦をまいて渦巻き模様を形成する。 ぐわ〜んぐわ〜んと頭の中で渦が反芻される。 気が付いたら、足取りが覚束ない。 頭もフラフラする。 「これは——催眠術か!!」 少女は一瞬にして相手の意図を悟った。 「くっ!」 対抗して、少女も人差し指を立てる。そして、翡翠と反対周りで螺旋状に回転させ始めた。 ぐーるぐる、ぐるぐる ぐるぐ〜るぐるぐ〜る 「やりますね!」 渦巻きと渦巻きの壮絶なる闘い。 ぐるぐ〜るぐるぐ〜る ぐーるぐる、ぐるぐる 翡翠が螺旋の回転速度を上げる。 負けじと、少女も回転速度を上げる。壮絶な渦巻合戦。 だが、勝負は意外なほどあっさりついた。 催眠術に気付いた少女は、翡翠の指先から目をそらしていた。 翡翠は生来の真面目な性格から、相手の指を注視し続けてしまったのだ。 「ぱたっ」 突然、翡翠は自分でそう呟くと、その通りに倒れた。 少女は安堵のため床にへたり込む。そして一言。 「今までで一番…強敵だった。」 「うーん、秋葉さま、志貴さまを早起きさせるなんて不可能です…。」 翡翠はむにゃむにゃと何事かを呟いていた。 この廊下の奥に、あいつ…いや、あの人が居る——— 右腕も、大分回復してきた。 もう、動ける。 少女は立ち上がり、ゆっくりと廊下の奥に向かう。 ———ボクは、あの人の命を、開放するんだ——— だけど。 ふと、何処からか泣き声が聞こえた。 それは、少女の心に染みるように響いてくる。 少女にとって、それは見捨てては置けないもの。 見置いてはならないもの。 赤ん坊の、泣き声。 少女は、泣き声のする方へ、ゆっくりと引き返していった。 -------------------------------------------------- 夢。 ちゃーーん、ちゃらららーん、ちゃらっちゃちゃーーん 「はーーい、ここは、もうすぐデッドエンドを向かえてしまうかもしれない、そんなかわいそうな志貴のための特別コーナー。その名も『教えて!!知得留青子(ブルー)先生』のコーナーです。選択肢が何も無いこの物語で、デッドエンドになっちゃったわけじゃないから安心してね。」 「あっ!ちょっと!何するんですか!このコーナー、わたしのじゃないですか!」 「うーん、うるさいのが来たわね。えいっ。」 ぼんっ シエル落書き化。 「あっ、あっ、あーーーー!!何てことするんですか!!こんなのあんまりです。わたしを元に戻してください!!」 「ふっふっふ。これで貴方も正ヒロインのアルクェイドと同じね。オマケに犬耳までつけてあげたわ。どう?良く似合っているわよ。よかったじゃない、これで人気投票の順位もばっちり上がるわよ。」 「ぶーぶー」 「いいじゃないたまには。私だって出番が殆ど無いんだから。晶ちゃんなんて、間接的な台詞が2つ3つだけで登場すらしないじゃない。ショートカット好きとかぬかして第二回月姫人気投票で晶ちゃんを一番に推した作者にしては、あまりといえばあまりな処置よ、これ。」 「あっ、そういえばそうですねー。この作者、わたしも二番にしてるくせに、物語中ではわたしはただの第七聖典を振りかざしたストーカー女として画かれてるし。」 「そうよねー。」 「ですよねー。」 敵味方を忘れ意気投合する二人。 … 「さて、犬はほっといて。志貴、このまま行けば、君の寿命…もとい命は後僅かよ。何も考えずに夢魔や少女カインと戦ったらまず間違いなく負けるわ。」 「ああっ、それわたしの台詞なのにぃ。わたしを元に戻してくださいぃぃ〜〜」 「ほらそこっ、外野うるさい!」 「きゅ〜〜ん。」 シエルは耳をすぼめ、尻尾を丸めている。 どうやら今の身分に甘んじることにしたようだ。 「まず、夢魔の能力と、少女、カインの能力とを整理することからはじめましょうか。まず夢魔の能力は、一般的な夢を見せるのとは別に『感覚の共有』と『想念の結界』の二つがあるわ。『感覚の共有』は複数の人間の夢を繋げること。そして『想念の結界』は夢の世界での個人の能力と行動の結果を現実世界に反映させること。これらについては昨日のアルクェイドとの会話の中でしつこいくらいに語られたからいいわね。」 「はいー。」 「少女カインの能力は、私達協会側は『促進』と『歪み』と呼んでいるわ。」 「『促進』と『歪み』ですか…。」 「そう。『促進』は、物事の時間を早める能力。音、光、成長、崩壊…対象は結構広いわ。」 「あっ、アルクェイドとの戦いの際、見せたのがそれでしたね。」 「そうよ、アルクェイドの目に入る光…つまりアルクェイドが見ているものを未来のものに挿げ替えたのね。結果、アルクェイドはカインの”残像”…もとい”未来像”と戦って敗れた。」 「ふふ、遠野くんが傷つくのは嫌ですけど、あの女が負けるのはいい気味です。」 「この能力は、カイン自身のエネルギーを放出するという形で顕現されるわ。だから自身のエネルギー以上のことは出来ないしやりすぎると自らの死期を招く。でもまあ、使い方次第では肉体の傷を修復するなど、良いことにも使えるわ。ただ、肉体の修復の場合、やりすぎると老化を招いて返って肉体を破壊することにもなりかねないけど。」 「ふんふん」 「『歪み』とは文字通り物事を歪ませること。歪みの対象は、精神(こころ)、空間、そして個人の能力など。こちらの能力も対象範囲は結構広いわね。」 「そういえば夢の世界で遠野くんがカインさんと戦ったとき、遠野くんが突き刺したナイフが全然外れていたことがありましたね。」 「そうよ。あれは『歪み』の能力で志貴の視界を歪ませたのね。」 「それじゃあ、このまま闘っても遠野くんはカインに勝てそうもありませんねー。」 「そう。だからこのコーナーがあるんじゃない。この場をかりて、夢で志貴に対策を伝授しているのよ。なんたって私は志貴の”先生” なんだから。」 「えっ、これって本編とは全く関係ないところで進行しているんじゃなかったんですか?」 「ちがうわよ。これでも魔術を駆使してレンの作るはずだった夢に潜り込んでるんだから。」 「よくもまあ、レンやカインの夢魔に打ち勝って夢に登場できたものですねー。」 「ふっふっふ。それもまあ、レンとカインの夢魔が夢の主導権を争っている間に私が乗り込んできただけだけどね。」 「漁夫の利ってやつですね。」 ぼんっ シエルの口も犬化する。 「余計なことは言わない。」 「わ、わんっわんっ、わんっ!」 「いい、今度余計なこと言ったら、元に戻してあげないからね。」 「きゅ〜〜ん。」 ばふっ シエルの口が元に戻る。 「そういえばシエル、貴方以前、カインと出会っているんじゃないの?」 「ええっ、わたし知りません。」 「何言ってるのよ。カインの正体は雌狼でしょ。貴方が死んでロアが転生してしまった後、教会からの手先として日本に来るまでの間に、一度雌狼を封印しているはずよ。」 「ああっ、そういえば!」 「貴方も夢で見たはずよね。もともとは貴方もロアの転生体。ロアを追いつづけるカインが貴方に惹かれていてもおかしくは無いわ。」 「そうでした。アルクェイドにすら勝っちゃうカインを封印したということは、わたしってやっぱりあの女より強かったのですね。」 「それはどうかしら。完全に教会の手先として洗脳された貴方が、出会い頭に問答無用で封印したから勝てたようなものよ。しかもそのせいでカインに無用に恨まれることになっちゃったみたいだし。第一、貴方覚醒した(汚染された)にもかかわらずアルクェイドに負けてるじゃない。」 がくーーっ 「せっかくだから、何か他に疑問点はないかしら?」 「そうですね。何だか今のカインって、ちょっと狂ってきてるような気がするのですが。」 「その通りよ。だけど正確には、狂ってきてるのは夢魔の方。カインの想念の影響を受けてるが故にってとこね。もともとこの夢魔は夢魔としてかなり変わり者だったわ。悪夢を見せることが夢魔として生きるための道なのに、人間に恋をして結ばれようとするくらいだから。カインの想念の影響を受け、その望みのままに悪夢を見せようとするのは、一見夢魔として正しい行動に見えるかもしれないけれど、それは強制されたものであって、夢魔の望みではないわ。だから自身の自身たる存在意義そのものを喪いかけてるのね。狂うのも頷ける、というものよ。」 「ふーん、なんか理由としては弱いような気もしますけど…。そうそう、夢魔は『輝ける魂』というものに惹かれたんですよね。でもこの『輝ける魂』って何のことでしょう。」 「平たく言えば素質を持った魂、ということね。月姫本編で言えば、弓塚さつきもそう。カインとさつきが出会っていれば、夢魔も新しい恋をしたかもしれないわね。」 「そういえばロアって、死ぬときに次の転生体を予め選んでおく設定だったはずなのですが、それって一体どうやってたのでしょう。もしまだ生まれてもいない子供だったら、選ぶも選ばないも無いと思うのですが。」 「そうね。その辺の設定については深く考えなくてもいいと思うわ。ちゃんと生まれてる人間の転生体を探してたようだから。貴方がアルクェイドに殺された後復活し、一ヶ月ものあいた殺されつづけた。それでどうやっても死なないのが判ったから殺すのは諦めて教会の手先として使いこなすことになった。その修行の期間が十数年だったと考えれば、別に月姫の設定を揺るがすほどの問題にはならないはずよ。」 「それじゃわたしの実年齢って30代後半から40くらいになっちゃうんですか?」 「ええ、そういうことになるわね。」 「それでは最後の質問です。雌狼がカインに変貌したとき、ロアに何をされたのでしょうか。」 「———名前…ね。」 「名前ですか?」 「そう。もともとカインは素質があった。あとはきっかけだけ与えれば、自然に魔物になれたのよ。」 「そのきっかけが、ロアに名前をもらったこと…。」 「強大な魔物の言葉は、それだけで魔力を帯びてるの。しかもそれが雌狼単体に向けられた言霊だもの。雌狼がカインになるきっかけとしては、それで充分だわ。そしてそれが、カインがロアを追い続けるきっかけにもなったのね。」 「そうだったんですかー。はい、これでわたしの疑問は全部解消しました。」 「それじゃ、本題に戻るわね。」 「はい。」 「…で、対策だけど。」 「遠野くんの能力が全く通用しなかったら、勝てないじゃないですか。」 「うーん、ホントだったらそうなんだけど、何事にもやりようはあるってことよ。一つだけ教えてあげるけど、カインと夢魔は、実は同じ命を共有しているわ。」 「『共有』?…『共融』じゃないんですか。」 「ええ、文字通り一つの命を共有している。いわばカインと夢魔は、二重人格みたいな位置付け、ともいえるわ。」 「一つの命で二つの人格…、まるで遠野くんとロアの関係だけど、こちらは二重人格なんかじゃなく完全に別人でしたね。」 「あちらは完全に別人だから、一方を倒せばもう一方は命を完全に自分のものに出来る。だけど今回の場合は、同じ命を使いまわししてるの。だから、夢魔とカインが同時に出現することはありえないし、どちらか一方を倒せば、必然的にもう一方も消滅する。」 「遠野くんとロア、とは違った形での運命共同体、ともいえるのですね。でも何でそんなことになっちゃったんでしょう。」 「昔、カインは一匹の雌狼から魔物へと変貌を遂げたわ。だけど、魔物の命は普通の命では賄いきれない。もっと多くの命が必要なの。こればっかりはもうどうしようもないわね。現に真祖に血を吸われた不完全な吸血鬼は他のものの命———血液———を吸収しないとその命が保てないものね。魔物になったカインは同時に周囲を漂っていた命を吸収して魔物としての命を完成させたの。吸収した命の中に夢魔も居たのね。」 「ほへー。教会側の記録には夢魔は輝ける魂に恋をしたとありますが、それってつまり自己愛になっちゃうんですね。ただのナルシストです。」 ぼふっ 「わんわんわ———わわんっ!」 「今度邪魔するようなこと言ったら許さないわよ、と言ったばかりじゃない。もう。」 ここは———? 「あっ、いけない、そろそろ志貴が目覚めるわ。それじゃあね志貴。ほらシエルちゃん、脱出するわよ。」 「きゅ〜〜〜〜〜ん」 青子は口と耳が犬化したシエルを抱え、大急ぎで撤収の準備をする。そしてふと思い出したように—— 「そうそう、それとどんな夢にも終わりがあるわ。終わりがある以上、志貴の能力を使えるって事よ。志貴の能力は、あらゆるものを殺す事。つまりいずれ来るであろう終わりを早めることだものね。その気になれば夢を殺す事だってできるはずなんだから。」 俺、は———? 「それじゃねっ、またどっかで会えたら会いましょ。」 すたこらさっさっさー 言うと、青子はシエルを抱えたまま何処かに走り去っていった。 --------------------------------------------- … 何だったんだ、今の夢は。 俺は、眼を覚ました。 相変わらず眼が見えない。現在が昼なのか夜なのか、判別がつかなかった。 窓の外から入る空気が暑いから、きっと今は昼過ぎなのかもしれない。 「翡翠?」 しーん 「琥珀?秋葉!」 しーん 屋敷の中が異様に静かだった。物音一つしない。 と、 耳を澄ますと、遠くの方で赤ん坊の泣き声が聞こえた。 秋葉たちは何をやっているのだろうか。普段だったら、赤ん坊を泣かせたまま放っておくことしないはずなのに。 赤ん坊は泣き止まない。 不自然に静かな屋敷。 もしかしたら誰もいないのかもしれない。 俺は、眼が見えない。眼が見えないけれど、でも屋敷の中くらいだったら壁を手で伝えば何とかなるかもしれない。 俺は、起き上がった。 念のため、ナイフは持っていく。 壁伝いに、赤ん坊の声のする方に向かう。 ゆっくり、ゆっくり、一歩ずつ。 翡翠のすぐ傍を通ったが、志貴は翡翠の存在に気付くことはなかった。 階段を下り、ロビーから、声のする方、居間へと向かう。 ロビーには、秋葉と琥珀がいたが、こちらにもついには気付かなかった。 赤ん坊の声は、何時の間にか、泣き声から笑い声に変わっている。 志貴は、居間に到着した。 「来たね。」 訊きなれない少女の声。だけど聞き覚えの有る声。 気配から察するに、少女は、赤ん坊を抱いているようだ。 赤ん坊のひっきりなしの笑い声が耳に入る。 俺は、そのまま突っ立っていた。 夢の世界で出会った少女が、今、目の前に居る。 不思議な既視感が俺を包んでいた。 やがて、赤ん坊がすやすやと寝息を立て始める。 少女はそれを確認して、赤ん坊をソファに横たえた。 「ボクは、カイン。はじめましてじゃ、ないよね。」 少女は志貴に向き直る。 「みんなは、どうしたんだ」 「あれ、気が付かなかったの。途中にいたじゃない。」 「途中?—おいっ、お前、何やったんだ!」 「邪魔ばっかりするからね。とりあえず、みんな生きてるよ。ボクの目的はキミ…いや、貴方なのだから。」 「俺を…?」 少女の雰囲気が変わる。 「貴方を———殺しに来た。」 戦闘開始の、合図だった。 「くそっ!」 今すぐに助けに行きたかったが、背後を見せれば問答無用で殺されそうなくらいの雰囲気が少女には在った。 俺は咄嗟に腰を落としナイフを構える。 だけど眼が見えない状態で、それは塵芥に等しい行為だった。 しかし 生きるための本能の為せる技かも知れない。 攻撃は、辛うじてナイフで受け止められた。だがその衝撃に耐えられず、俺は吹っ飛ばされた。 ドンッ 「ぐはっ!」 背中が壁に叩きつけられる。一瞬、意識が薄れそうになるが、意識を注ぎ何とか堪える。 俺は壁に凭れながら、少女の見えない次の一撃に備える。 だが ひゅん めきっ 頬に横殴りの一撃。 それは完全に意識の外れからの攻撃だった。 廊下を吹っ飛ばされる。 俺は廊下を吹っ飛びながら、意識を喪った。 ———アルクェイドが、闇に、呑みこまれた。 ぞわぞわと音を出すように、アルクェイドの体と言う体を束縛していく。 「終わりだ、真祖の姫よ。何故、貴様がヤツばかリ執拗に敵視していたか興味は尽きぬが———もはや口も利けぬようだな。」 こんなことを言っていたのは、誰だったか——— ず、と音をたててアルクェイドの体が沈んでいく。 さっきまでは辛うじて見えていたアルクェイドの体のラインも、今ではもう見えなくなっている。 ———このまま、放っておいたら、アルクェイドがあいつの一部となってしまうのか——— それは、アルクェイドの、死———? ガ——————…ッ! アルクェイドが、死ぬ。 吸血鬼、真祖の姫、バケモノ。 人からそう罵られ、吸血鬼の処刑役として、人からも、そして仲間からも疎んじられ、何も無いときはただ眠るだけの、ひと。 面白いことを何一つ知ることなく、吸血鬼を、ロアを、真祖の仲間を殺す以外はただ眠るだけの、姫。 着飾ったドレス、豪華な城。 そんなものに何の意味があろうか。 あいつは、いつもたった一人なんだ。 だから、俺がついてやらなくちゃ。 この世界は、面白いことで一杯なんだと、知って欲しいから。 俺の愛する、たった一人の可愛い姫。 闇の中を、月が煌々と輝いている。 月は、夜の闇の中を、たった一人で、輝く。 ああ アルクェイドには 白い月が、良く似合う。 ざあっ 生暖かい風が吹いて、あいつの体から更に何十という闇たちが吐き出される。 俺の体を束縛する闇を見つめる。 その闇が束縛するように、ウネウネと俺の体を這いずり回る。 思い出されるのは、身体中を啄まれる記憶。 俺の周りは、闇の獣たちで、真っ暗になっていた。 ぞわぞわぞわ 闇たちは、少しずつ、俺の体に染み込んでいく。 俺の手足が次第に感覚を失っていく。 やはりあの時と同じく、ナイフを握り締めた右腕だけが、確固たる俺の存在を保証してくれる。 俺が、ここで、死んだら。 アルクェイドは、どうなるだろうか。 泣いてしまうだろうか。 いや 泣くことさえ出来ない。 俺が、今ここで、死ねば。 闇に呑まれたアルクェイドも、必然的に、助からない。 ならば どうすればいい。 ———俺は  起き上がらなければいけない。——— ———起き上がって、アイツを、殺す——— カチリ どこかでスイッチが、入った。 俺は、覚醒した自分を、解き放った。 時間にすれば、ほんの一瞬。 その一瞬の間に、俺は、何か夢を見たような気がする。 俺は、まだ空中に飛ばされたままだった。 このままだと頭から床にぶつかってしまうので、手をつき、身体を捻って足から着地する。 少女との距離、凡そ5メートル。気配でわかる。 視界が閉ざされている。このままじゃあいつを満足に殺せない。 ふと、視得ないはずの視界の闇の片隅に線が一本、見えた。 俺の視界を束縛するものの、線。 これが、夢魔とやらの見せている、俺自身の想念なのか。 「フン。」 俺は、迷うことなくその線を両断する。 線は、あっけなく両断された。 その途端、意識の中で否定していたものが、俺の記憶から消滅した。 同時に、俺を束縛するものも、消えた。 視界が、徐々に回復する。 まず点が、そして線が見えた。 そして こちらを睨むように、少女カインが、いた。 「あの一撃で意識を奪ったと思ったけど、なかなかタフだね。」 「………………」 俺は応えない。ナイフを逆手に持ち、カインを凝視した。 見える。 カインの身体中を走る線と、点。 だが、なんだ? 全ての点と線が2重に重なって見える。 まあ、いい。 全てを切り刻めば結果は変わらないのだから。 「行くよっ!!」 カインが突進してくる。同時に、闇が爆発的に広がり少女を蔽い尽くす。 俺は躊躇うことなく構えたナイフを繰り出した。 ザンザン ザン ザザン 俺は一秒と掛からずにカインの全身の線を切り刻んだ。 つもりだった。 だが、刻まれたのは闇ばかりで、カイン自身には傷一つ無い。 「なっ!」 ドンッ カインの拳が腹にめり込む。 「かはっ!」 心臓が一瞬とまり、呼吸が出来なくなる。 カインは攻撃の手を休めることなく、回し蹴りを放つ。 蹴りがこめかみにヒットし、俺は左肩から壁に叩きつけられた。 ダン ごきっ 「ぐあっ!」 壁にぶつかった衝撃で、肩が外れる。 左腕に力が入らなくなり、ナイフを持った右手で左肩を支える。 「どうしたの、そんなもので終わり?それじゃあ、そろそろ死んでもらおうか。」 カインの瞳は明確な殺意を帯びている。 「俺は、死ぬわけには……いかない。」 瞼にちらつくのは、たった一人で、月を見上げているアルクェイド。 俺は再びナイフを構えなおし、壁を背にカインと相対する。 と 蹴りが来たと思う間も無く、再び俺は吹っ飛ばされる。 「ガアッッ!」 今度は左足が折れた。 強い。 こちらの攻撃は一切効かない。 あの闇が、こちらの全ての物理的な攻撃を逸らしてしまうのだ。 吹っ飛ばされ、叩きのめされるのも何度目か。 それでも俺は、倒れるわけにはいかない。 こんなとこで死んでやれない。 フラフラになりながらも、何度でも、立ち上がる。 「…しぶといね。」 「まだ死んでやれるほど…、人生達観…できていないもんでね。」 左手は…先程壁にぶつかったときに外れたか。全く動かせない。 肋骨は…折れてるかヒビが入ったかしているだろうか。呼吸するたびに激痛が走る。 額を切って流れた血が片目の視力を奪っている。 左足首が変な方向に曲がり、引きずるようにしか歩けない。 カインは、闇を増大させ、攻撃の姿勢をとる。 俺は、壁にもたれながらも、カインの線と点を注視し、一番大きな心臓の二重点にナイフの切っ先を合わせる。 カインが、飛び掛ってきた。 そのとき。 「おぎゃぁぁぁ」 不意に居間から、赤ん坊の泣き声が響いた。 「えっ」 カインの意識が、一瞬、そちらに奪われる。 その一瞬。一瞬だけ、カインの身体を被っていた闇が途切れた。 そして とん あっけないほど簡単に、ナイフが胸の点に突き刺さった。 「あっ」 カインのその声は、悲鳴か、驚愕か。 俺自身、意外な結末に、思考が停止する。 カインは泣き、笑いのような表情で、胸に刺さったナイフを見、再び俺に向く。 「あは、ねえ、嘘だよね。こんな、こんな、ボクがやられるわけ無いんだ。嘘だろ、嘘と言ってよ、ねえってば…」 「……………」 がくん カインの足が、まるで釣り糸が切れた人形のように力をうしなう。 カインは床にへたり込んだ。 「やだよ、ボク、追いかけなくちゃならないんだ。ずっとずっと、訊きたかった事があるんだ…。」 「……………」 がくん カインの手も、力を失い、垂れ下がる。 「ねえ、答えてよ。何か言ってよ!」 ぽろぽろぽろ 泣き笑いの表情のまま、カインはとめどなく涙を流した。 「ロア———」 ばしゅううううう 突然、少女の気配が変わった。 闇から、より一層の、漆黒へ。 「マダだ!」 カインの手が、突如力を取り戻す。俺の顔に向けて掲げられた掌から、何かが飛び出したような気がした。 シュンッ 「!しまっ———」 俺の意識に、闇が混ざった。 ここは———? さむい、夜。 ひゅうひゅうと、風が、通り過ぎる。 見渡す限りの、草原。 遠くには、山並。 空には、雲ひとつ無く、 まあるい月が、塔のてっぺんにさしかかっている。 城が、あった。 中世の城のよう。 跳ね橋は、上がっている。 そして 城の後ろに、湖があって——— 夢の中で、俺は夢を見ていることを自覚していた。 なんとなく漂う非現実感。 夢を見ていながら、夢からの目覚め方を忘れたような感じ。 ———湖の中に、少年が、いた。 緑髪、碧眼。 カインと良く似ていた。双子と言ってもいいかもしれない。 ただし、カインのような少女らしい面影は無く、瞳には悲しみと、より明確な意思の光が込められている。 「良ク来タね。ハじめまシて、ジゃなイよ。」 「お前は———」 「バグ…夢魔ノ、バグ。カインに取リ込マれタ、もウ一ツの魂。」 「そうか、お前が、夢魔…。」 「キミの能力なラ見エたはズダよ。ボクタチの命ガ2重に重なッテいルのを。」 確かに見えた。普通ならただの点と、点を結ぶ線だったはずなのに、それら全てが2重に重なって見えた。 「あれが…」 「ソう。ボクとカインが、同ジ命を共有しテイる証。」 ジジッ 世界がぼやけた。 見ると、バグが苦しそうに蹲っている。 「ぐグ…もう、時間ガなイ……」 バグは俺に向き直ると、言葉を紡ぐ。 「頼ミガある………ボクヲ………殺しテくレ………。」 ひゅっ 俺の手に突如ナイフが出現した。 まるで生まれたときから持っていたかのように手に馴染んだナイフ。 これと、俺のこの眼があれば、全てを殺せる——— 夢魔バグはいよいよ苦しそうに呟く。 「こノ夢ノ世界を…終らセテくれ…。」 ジジッ 夢の中の城が、崩壊…いや、消滅した。 文字通り、消滅。 「早く…ハヤく…。」 夢の中で誰かが言っていた。 カインと、夢魔は、命を共有してると。 俺は、現実世界で、カインを刺した。 なら、この夢魔バグも、死ぬのではないか——— ジジッ 周囲の山並が、消滅した。 俺は冷たい眼で少年を見下ろす。 「何故?」 「カインは…タダ、ロアとともニ行きタカッただケなんダ。ボクハ…ソレをたスけテやりたカッタ。」 ジジジッ 草原と、湖とが消滅した。 残されたのは、俺と、少年。そして、月。 「ボクと…カインは…一つノ命を共有してイル。…ダケどそノ命は、現実世界トこノ夢の世界ニ跨ってイテ、…現実世界ノ命ダけを殺シテモ、夢の世界ノ命モなくなラナい限リ、…カインは死ねナイ。」 ジジッ とうとう、月も消滅した。 俺と、バグだけが、闇の中に浮かんでいる。 「ボクが死ネバ、カインも死ねル。死後ノ世界ニ旅立ったロアを追えルンだ———」 ジジッ そして少年も消え、全てが闇に覆われた。 闇。 一面の、闇。 何も存在しない。手を伸ばしても、何も感じない。 上下があるのかすらももどかしいくらいに判らない。 はっきりしているのは、自分が此処に居るという存在感と、此処を壊さなければ、現実に戻れないという、確信だけ。 俺は、秋葉、翡翠、琥珀、先輩や、そしてアルクェイドが居る現実に、戻らなくちゃいけない。 闇を、視る。 相変わらず、距離感をも感じさせない漆黒の闇が眼前に横たわるばかり。 だが 漆黒の闇の中に、そこだけ区別されたかのように、線が、視えた。 ぴぃぃぃぃん と、張り詰められた、糸のような、線。 後は、その線を、切るだけだった。 「こレデ、終ワる———」 何処からか、誰かが、そう呟いたような気がした。 俺は、線を切った。 バグは、霞となって消滅した。 眼を開けば、そこは現実世界だった。 時間にすれば、ほんの泡沫だったのかもしれない。 カインの胸には、ナイフが深々と突き刺さっている。 誰が見ても、これは致命傷だとわかる。 「カイン…」 「ボクは…自分を止められなかった。いいんだ、これで。」 カインの瞳がいよいよ光を喪う。 2重に見えた線も、今や単独にしか存在していない。 ナイフは、ほんの少し、点を逸れて突き刺さっていた。 だから、カインは即死していなかったのか…。 「ロア——?、あは、ロアなんだね。ボクを見てくれてるんだ。」 「えっ、」 少女カインが、虚ろな瞳に僅かばかりの光を宿して、こちらを見つめた。 「嬉しい…」 カインは俺に抱きついてきた。 「ああ、暖かいや。ボクはずっと、貴方と共に———」 さあっ 廊下の開け放たれた窓から風が吹いた。 カインもまた、霞となって、消えた。 そして同時に、それが俺の悪夢の終わりでもあった。 「おぎゃぁぁぁぁ」 ああ、赤ん坊が、泣いている。 ああ、そうか。 赤ん坊の泣き声が、ここを現実だと改めて俺に認識させてくれた。 行かなくちゃ。 足を引きずり、居間に向かう。そこに赤ん坊が居るはずだ。 俺は、そこで意識を失った——— 【七日目(金曜日):最終話】 「—本当に、申し訳ありませんでした。」 俺達は、一見、何の変哲もない、優しそうな、でもちょっと痩せた中年男性と向かい合っていた。 俺は、いや、秋葉、翡翠、琥珀、そしてアルクェイドを含めた俺達は、目を覚ますと、身体に受けた傷が嘘のように治っていた。 全てが夢かとも思ったけれど、屋敷のあちこちにある戦いの爪痕が、あれは現実だったと再確認させてくれた。 皆で不思議に思いながら夕食を食べ、寝て、そして翌日。 一本の電話が、遠野家にかかってきた。 「赤ん坊に合わせて欲しい。」 というのが、電話の主の言葉だった。 男性の名前は愛印津売(あいん・つばい) 男性は、赤ん坊の父親だった。 本当にこんな名前があるのかと言う点が個人的に非常に興味があったのだが、本人が言ってるのだからきっと本当なんだろう。 何より緊迫した雰囲気でそんな質問をしたら、女性陣から情け容赦の無いツッコミが入るに違いない。 痛いのは嫌なので、俺は黙っていた。 遠野家の調査力は偉大だったと言うか、それでも一週間も掛かってしまったというべきか、赤ん坊の両親探しの努力が、ようやく実った。 いや、正確に言えば、父親が一週間を経て自ら父親の名乗りを上げた。だから調査力もへったくれも無かったのかも。 これで漸く、赤ん坊を肉親の下へと返せる。 だけどそれは同時に、俺達と赤ん坊との別れをも意味していた。 「———それで、今更何をしに来たと言うのですか。」 秋葉の態度は、冷たいを通り越して威嚇するかのような迫力があった。 赤ん坊は、血を分けた本当の両親といるのが一番幸せ、という一般論は、こと遠野家においてはあまり通用しない。 愛してくれる人と別れることが、愛してくれる人がいないことがどれほど寂しいものなのか、8年という孤独な年月を過ごしてきた秋葉ならその想いが強い。 だから尚更、男性への当て付けが厳しいのだろう。 もしかしたら、本当に赤ん坊を遠野家で引き取るつもりでいたのかもしれない。 そんな想いを抱き始めていた頃に、突然の実の父親の訪問だった。 「……………」 男性は、俯いて下を見たままだ。 「——答えなさい!」 秋葉が怒鳴る。 男性は一瞬、何か言いたげに上を向くが、暫くしてまた下を向いてしまう。 「私は…、一度息子を捨てた身です…。妻に先立たれ…息子を見ていると妻が思い出されて……。」 俯いたまま、男性は話し始めた。 「笑いかけてくる息子を見てると…とても憎くなって…だから…。」 「———だから赤ん坊を捨てたと言うのですか!ふざけないでっ!親の一方的な都合で、簡単に赤ん坊を捨てたりして!捨てられた方の子供はどんな想いを抱くと思ってるのですか!」 秋葉にとっては、親の一方的な都合で俺と離れ離れになった。 だから親の自分勝手な行動というものに、人一倍敏感に反応してしまうのかもしれない。 俺にとっては、それでも有馬の家庭てそれなりに家族と触れ合って生きてこれた。 だけど、それが秋葉には無かったのだろうから。 男性はそんな秋葉の剣幕に、俯いたまま身を竦めている。 だけど、それでも、諦めきれないようだった。 「でも…、離れてみてわかりました。妻を愛していたかこそ、息子も大切なんだって…。何をおいてでも、息子が大切なものなんだって……」 「……………」 秋葉は無言だ。 「お願いです。息子を…蹴太院を…返してください。」 「赤ん坊は、貴方のような方に返すわけにはいきません。血を分けた子供を捨てるような人は、父親を名乗る資格はありません。」 事実上の秋葉のこちらで育てますわよ宣言。 中年男性は、その言葉を身じろぎせずに聞いていた。 父親を名乗る資格が男性にあったのか。その答えを自問自答しているように見えた。 しばし、無言の刻が流れる。 「申し訳ありませんでした。私なんかに、父親を名乗る資格は、ありませんね。本当に、申し訳ありませんでした。」 やや虚ろな声で謝りながら、中年男性が立ち上がる。 「息子を、宜しくお願い致します。」 先程から、赤ん坊の方をちらりとも見ていなかった。 捨てられた当の赤ん坊は、捨てられたこと自体、理解していないかもしれない。 だけど、その赤ん坊が、自分を憎んでるかもしれない、そんな想いが男性にあったのかもしれない。 だから、息子と正面きって相対することが出来ないでいるのかもしれない。 男性は、そのまま、居間を出て行こうとする。 「ま、待ってください。もうちょっと、せめて赤ん坊を抱いてやるだけでも…」 俺は居たたまれなくなり、そう声をかけた。 「いえ、いいんです。おっしゃる通り、私は一度その子を捨てた身、父親失格ですから。何と言われようと反論できません。」 寂しそうな笑顔を向け、男性は応える。 ———このままでは、赤ん坊は二度と血の繋がった父親と会えなくなる——— 何としても引き止めなければ。でもどうやって。 そう思った矢先、 「おぎゃぁぁぁぁぁあああ。」 突然、赤ん坊が泣いた。 はっと立ち止まる男性。 慌てて翡翠が赤ん坊を抱き上げあやしてやる。 「おぎゃぁぁぁぁぁぁああ。」 「どうしたのですか、おしめですか、ミルクですか。」 琥珀も傍に寄り、二人して赤ん坊を泣き止ませようとする。 秋葉は、じっとそっぽを向いたままだ。 「おぎゃ、おぎゃ、おぎゃぁぁぁぁぁぁ。」 赤ん坊は、だけど一向に泣き止まない。 ただ一心に、中年男性に向かって、手を伸ばしていた。 男性は、振り向かない。 やがて、翡翠、琥珀共に、赤ん坊が何を言いたいのか、わかった。 認識していたのかは、わからない。 でも、一生懸命にに、自分の血の繋がった父親に向かって手を伸ばす赤ん坊。 父親は、わかっていたのかもしれない。 赤ん坊が、自分とまた別れるかもしれない事を泣いているのだ、と。 それでも踏ん切りがつけられない男性。 振り返ることなく、かといって居間を出ることもできず、ただ立っていた。 翡翠、琥珀は、男性を見つめ、無言でじっと立っている。 だから 俺は、男性に歩み寄り、両肩を掴んで、振り返らせた。 「おぎゃぁぁぁぁぁぁあああ」 ただ、赤ん坊だけを見つめる男性。 赤ん坊は、父親に向かって、その短い手を精一杯、伸ばしていた。 男性はそれでも踏ん切りがつかなかったのか、歩き出そうとしない。 俺は、男性の背中を、ポンと叩いた。 ふら、ふら、ふら 背中を叩かれた勢いに押されるようにして、赤ん坊に向かって歩いていく男性。 そして、 父親は、導かれるように、赤ん坊を抱き上げた。 しゃくりあげる赤ん坊。 涙を流して、赤ん坊を抱きしめる男性。 父と子が、家族であることを再認識した瞬間だった。 秋葉は、ずっと外を向いたままだった。 胸に赤ん坊を抱え、何度も振り返りお辞儀をしながら、中年男性は去っていった。 「ふんっ、これでせいせいします。翡翠、琥珀、わたしはこれから部屋で休みます。夕食は結構です。」 「「かしこまりました。」」 言うなり居間を去る秋葉。 俺は放っておけず、秋葉を追いかけて居間を出た。 秋葉は足早に階段を上がり、自分の部屋に駆け込んだ。 俺は無言で秋葉の部屋の前に立つと、そっとドアに耳をつけた。 「わあぁぁぁぁぁぁっ。うぁっ、ひっく、わぁぁぁぁぁん。」 秋葉は、部屋の中で泣いていた。 精一杯、背伸びをしてきた仮面を捨てて。お嬢様の仮面をかなぐり捨てて。 誰よりも愛情をもって赤ん坊に接していたのは秋葉だったのかもしれない。 裏を返せば、誰よりも愛情に餓えていたのかもしれない。 これ以上、何を言うことも出来ない。 子供だったら、秋葉ならこれから幾らでも得られる。 今はただ、時間が慰めてくれるだろう。 俺は、そっと部屋を離れた。 -------------------------------------------------------------------------------- 夢。 何故か奇妙な現実感がある、夢。 俺はその奇妙な夢の中で更に、眠る、という奇特な行動を取っていた。 う〜ん俺って大物。 「———しーきー、志貴、志貴ってば!」 誰かが呼ぶ声がする。 目を覚ますと、まず飛び込んだのが、緑。 緑髪、碧眼の人影が見えた。 「やっと起きた。キミ、このボクがいる夢の中で寝てるなんて、どういうつもり?」 「——カイン?」 視界がはっきりしないまま、俺は尋ねた。 「違うよ〜、ボクはバグだよ。」 視界がはっきりしてきた。 人影は少年——バグ——だった。 「やっ、こんにちわ。…こんばんわ、かな?」 「随分明るいな、お前。」 「あはは、だってボク、もともとこういう性格だも〜ん。」 少年は頭の後ろで腕を組み、無邪気に笑っている。 昨日までのことか、嘘のような明るさだった。 「今日はどうしたんだ。」 「うん、一言お礼が言いたくて。キミがボクたちを殺してくれたおかげで、追いつけたから。」 殺されてお礼というのも奇妙な話である。 「そういえばお前、俺が殺した———」 「うん、そうだよ。だからこれは夢。キミが自分で見てるただの夢。だから細かいことは気にしなくていいんだよ。」 少年はこともなげに言う。 「追いつけた——って?」 「うん、ほら、そんなとこで恥ずかしがってないで出てきなよ。ねえロアもさ、ちょっとくらいいいじゃん。」 少年は俺の背後にまわり、後ろで誰かと会話した。 ———ロア?——— 「ロア!」 俺は慌てて振り返る。 そこに、いたのは。 シキと混ざったのか、青銀の髪をしたロアと、見知らぬ女性がいた。 目の覚めるような長い銀髪、透明な水晶を思わせる銀の瞳の女性。 年の頃は20歳くらいか。 俺に向かって、優しく微笑んでいた。 ロアはロアでそっぽを向いていたのが、なかなかに彼らしい。 暫く女性に見とれていたが、ロアの存在の危険性を思い出し、慌てて身構えた。 「てめえっ、まだこんなとこに居やがったのか!」 しゅんっ 此処は俺の夢。俺の思い通りになる世界。 俺の意識に反応して、手にナイフが出現した。 俺はナイフを逆手に構え、用心深くロアの動向を探る。 ロアも俺の殺気を目にして、戦闘態勢を取る。 「わあ、待って待って待ってよ、大丈夫だよ。これは夢、夢なんだから、落ち着いて、ね。」 少年が慌てて俺とロアの間に立ちふさがる。 少年の仲裁をみて、ロアが再び手をコートのポケットに入れる。 「フン、魂を失い転生の秘術が絶たれた今となっては、最早真祖の姫君にも、ましておや貴様にも興味など無い。」 忘れもしない、俺を散々苦しめた、青銀の髪を持つロア。 だけど、以前の殺伐とした雰囲気が少し和らいだように感じた。 俺も、ナイフを仕舞った。 隣には、緑髪、碧眼の少年。 正面には、銀髪、銀目の女性。 ロアは、相変わらずちょっと離れたところでそっぽを向いている。 女性は、相変わらずニコニコしている。 でも俺には全くといっていいほど心当たりが無い。 「—で、以前、お会いしたことがありましたっけ?」 「はい。」 にこーっ、にこーっ うっ、笑顔が眩しい。 思い出せないのがなんか物凄い犯罪のように思えて、俺は必死で頭を空回りさせる。 だけど思い出せないのはやっぱり思い出せない。 「もう、しょうがないなぁ。カインだよカ・イ・ン。キミも散々戦った相手じゃないか。」 カイン?カインて、あの? なんだーそれならそうと早く言ってくれりゃいいのに。 見たこと無いような女性だったからびっくりしちゃったよ俺。 「———って、そんなわけあるかー!」 あるかー、るかー、かー 俺の怒声が木霊する。 少年は、あまりのうるささに耳を押さえている。 カインと(少年が主張する)女性は、びっくりして目を見開いたものの、しばらくしたらまたニコニコ光線を放射してくる。 「—っ、たぁ〜、もぉうるさいよキミ。やめてよね。そーゆーネタを何度も使い回ししてると面白くないんだから。」 ほっとけ 「うるさい…って、それ所じゃないだろ。カインたって、お前とそっくりの少女だったじゃないか!」 少年は再び顔をしかめる。 「だーかーらー、うるさいっての。ボクたち、命が一つだったから、姿があんなだったんだよ。狼だった頃のままの魂で、人間に生まれていたらこんな感じの人なんだってば。」 「こんにちわ志貴さん。カインと申します。いえ、本名を名のらないといけませんね。私は、カイナンシア=レチェドアと申します。以後お見知りおきを。」 少年の言葉を受けて、女性が挨拶してきた。 俺は、はあ、と気の無い返事を返すだけだった。 「何か…随分印象が違うんですけど…」 カインを名乗る女性は困ったように顎に手をやって考え込むしぐさをする。 「う〜ん、そうですね。わたしとバグくんは、命が一つになってしまったために、互いの性格にまで影響が出てしまったみたいですし。」 そういって、やはり笑顔を向けてくる女性。 …頭の中が全部晴天のような人だ。 互いに性格に影響が出た、という割には、両方の性格ともダークな方向に変質してたんじゃん? 「それで、俺に何の用ですか。俺は貴方を殺した人間です。恨まれこそすれ、そう笑顔を向けられるような存在じゃないはずですが。」 「あら、わたし、志貴さんが好きですよ。それに今日はお礼を言いに来たって、さっきバグくんも言ったばかりじゃないですか。」 「お礼って、何の?」 「志貴さんのおかげで、わたしもロアに追いつけましたから。」 といって、何気にロアの方に向きやる。 ぷいっ こちらに聞き耳を立てていたロアがそっぽを向きなおす。 ロアに、追いつけた。 そうか。 この人は、ロアを追いつづけていたんだった。 それにしてもロアも性格が丸くなった。 あの時だったら、目に付くものは問答無用で殺すか、あるいは全くの無視をしてそうなのに。 「それで、ボクたちは挨拶に寄ったんだ。」 「わ、私はたまたまここを通りがかったにすぎん。貴様などに興味はないと言ったはずだ。」 言うと、ロアは少しだけ顔を赤くしながら足早に去っていく。 「ふふ、あれであの人、照れているんですよ。」 「ボクたち、ロアについていくんだ。」 「あの人が、一緒に来るか、って。だからわたし、何処までもついていきます。あの人の見るものを、わたし達も見つづけます。」 「大丈夫なのか。」 「ふふ、世の中に一人くらい、変わり者がいたっていいじゃないですか。どんなことになっても、それが私の選んだ道ですし。」 「一人じゃないよ、ボクもだよ。」 「あら、ごめんなさい。ふふ。」 「そうか…。」 十数歩先を行くロアが、こちらを振り、言う。 「何をしている。早く来ないと置いていくぞ。」 「ゴメン。呼ばれてるから、もう行くね。」 バグ少年は、立ち上がってロアの後を追う。 「私も、もう行きます。」 言って女性も立ち上がる。 「カイン…さん?」 「はい、なんですか。」 女性が立ち止まり、振り返る。 「お幸せに。」 いろいろな、意味を込めて。 「はい。」 女性は、満足気な微笑を、返してくれた。 「そうそう、忘れるところでした。」 「?」 女性は胸に手をやり、一言。 「ボクは、カイ…カイナンシア=レチェドア。永遠を求めるロアを追い続ける、追跡者。」 言って、ニッ、と笑った。 その姿が一瞬、緑髪の少女の面影と重なって見えた。 だから、今まで半信半疑だったけど、カインなんだな、って心の奥で納得できた。 ロアの歩む先は、光。 横に、銀髪の女性と、緑髪の少年がいる。 少年は楽しそうに女性と手を繋ぎ、女性は長い髪を左右に揺らしながらロアに寄り添って歩いていた。 その姿が逆光でよく見えなかったけれど、 ロアが、少しだけ、口許を笑わせていたような気がする。 永遠を求めて、何処までも歩みつづける、ロア。 道が、在った。 これまでは、たった一人で歩みつづけただろう、道。 ロアが歩いていく。 いま、そのロアに同伴者がいた。 銀髪の女性と、緑髪の少年。 道は、これからは、共に。 永遠という命題に、答えは出せるのだろうか。 何処までも続く道に、終わりはあるのだろうか。 光の先に何があるのか、きっとロアだったら、求められるのだろう。 隣に、銀の髪の女性と、緑の髪の少年を、従えて。 三人の姿が光に飲み込まれ、小さくなり、そして消えた。 俺は、そこで眼を覚ました。 -------------------------------------------------------------------------------- 7年後、某所。 「ぱぁぱ!」 どすっ 「ぐえっ!」 まだ年端も行かぬ少女が、パパのベットにスカイダイビング。 その格好は、外行き用におめかししている。いや、どちらかというと、遠足に行くような格好。 きっと、今日は家族でピクニック。 何時までも起きてこない父親を、強引に、いや、いつものように起こしに来たのだろう。 「〜っ、げほっ、げほっ、こらっ、そういう起こし方はやめなさいって何度も言ってるじゃないか。」 俺は、まるで効果はないとわかってはいても、そう声をかけずにいられない。 「ぱぁぱ、ぱぁぱ!今日は、かぞくでおでかけの日だよ。早く起きよーよー。」 ゆっさゆっさゆっさ 少女は俺に跨り、しきりに身体を揺らす。 全く、妻でさえ手を焼く俺の寝ボスケぶりなのに、この少女には全く適わない。 俺は、思わず苦笑をこぼしながら、上半身を起き上がらせて少女の頭を撫でた。 「わかったわかった。パパはこれから着替えるから、お前はママと一緒に居間で待ってなさい。」 「は〜〜い。」 少女は、頷いて素直にベットから降り、たたたと駆け出していった。 「転ばないように気をつけるんだぞ!」 「は〜〜〜い。」 少女の姿はもう部屋の中から消えている。 全く、一瞬も一つ所でじっとしていられないんだから。 この子を見てると、ふと誰かを思い出しそうになる。 けど、思い出そうとすると頭の中に霞が掛かったように思い出せない。 今日は休日だ。 さあ、着替えて、愛する妻と可愛い娘とで出かけますか。 俺は伸びをし、ベットから降り立った。 「——あのねあのね、それでロウくんったらね、地面にかおからつっこんでね——」 「はいはい。」 妻と娘が居間で会話している。 娘は興奮気味に何事かを話し、妻が娘の頭を撫でながら聞いている。 居間に入ると、昼食用の弁当のいい匂いがした。 「——おはよう。」 「おはよう、ぱぁぱ!」 「あら、今日は早いじゃない、あなた。おはよう。」 「ああ、自慢の我が娘にたたき起こされてな。」 「まあ。」 妻は、口に手をやり、ふふ、と笑った。 「じゃあ、行こうか。」 「ええ、あなた。」 俺は弁当の入ったリュックを持って、一足早く入口を出て門に向かう。 空は、晴天。 絶好のピクニック日和だ。 まだ朝の早い時間なので、空気に清浄の香りが漂っている。 俺は、胸一杯に、その空気を吸った。 振り返り、娘と妻に声をかける。 「さあ、行こうか、海、おまえ。」 「うんっ!」 「はい、あなた。」 空は、晴天。 何処までも続く青空の向こうで、小鳥がチチと囀ったような気がした。 /END